にっかん考現学No.35

前稿で筆者は、アイヌ語地名を基にして、韓国の地名と比較する試みを語った。それは日韓両言語間の古層における共通性または近縁の度合いを知る手がかりとして地名を使ったのだが・・・・
その背景を語れば、”地名”が基礎語たる素養を備える”ことば”であると、私なりに考えたからである。
今日は、その続編である。
なぜアイヌ語知名なのか?について、少し補足をしてみたい。
まず、アイヌ人の扱いだが、それは本稿の主題ではないので深くは踏み込まない。
○ ただ単に日本列島の先住民であること。
先住民なる言葉の意味を少しだけ説明する。この列島は、大陸性の島であり。2千万年前頃ユーラシア大陸から分離したらしい。現生人類の歴史は20万年程度だから、ひょっこりひょうたん島スタイルよろしく。島の分離・漂流開始による誕生の時から、島の上にヒトが住んで日本民族となったわけではない。
日本人は世界に冠たる超優良民族だとする=ギャートルズ史観?を否定しておきたい。
列島土着の人種は存在しなかったのであり、先後の違いはあれ現生日本人はすべからく渡来者である。
この当たり前のことをくどくどしく記述しておく必要があることを残念に想う。
○ 文字を使わないで生きてきたこと。
アイヌの存在が、政治の課題として取組対象とされたのは、何時のことだろうか?
おそらく明治だろうが、その時アイヌ語を表記する固有の文字体系の保持は見いだされなかったらしい。
そのことも深く立入らないが、古代の東北経営に登場する蝦夷との重なり具合もまた明らかでない。
広く人類の過去に眼を転ずると。各地に文字が生まれた背景として、農耕つまり食料生産技術との関連が指摘される。
文字は、農業によって飯を食う民にとってのみ必要だったのである。
さすれば、アイヌ人は、これまで農耕民族集団とも・文字を使う集団とも、時々にコンタクトしながら。北へ北へと移住することで、明確な意図のもとに深い接触を回避する生き方を繰り返してきたと考えられる。
いささか余談だが、農業に依存しない=土地に根を張らない生き方は、究極的に領土問題に発展しないスタイルだ。
漁撈・採集の生き方=人類が最も古く獲得した生存方法を保ち続けて来た彼らにあらためて畏敬の念を感ずる。
その点領土問題に熱を上げる現代人はどうだろうか?
後世に出現した・つまり新しい生活スタイルを誰よりも早くキャッチ・アップしたがるキャピキャピ文明観・に憂き身をやつす生き方だけは避けたいのだが・・・
文明が文化より高尚とする考えや、文化を水の流れに例えて高い処から低い所へ伝わるとする見解。
そのような立場を、筆者は採らない。
さて、本題に戻ろう。
日本列島の各地に、アイヌ語で地形の意味=つまり命名の由来=が説明できる「地名』が残っておりながら、現にアイヌ人は住んでない。この2つの事は、上記のとおりで納得できる。
次に、日本列島の現行地名を基礎語の対象として採用しない背景について触れる。
遠く律令時代に発せられた、地名に関する2つの命令を掲げる。
△ 和銅六年五月 元明天皇の詔・・・・(全国の)郡郷の地名に好字を用いよ
△ 延長五年   延喜式・民部式・・・(全国の)郷里は嘉名二字とせよ
これによって、10世紀以降この国の地名は、須らく2文字で表記される決まりとなった。
いつの時代もそうだが、暴圧と強制がものごとを歪める。”文字なる新文化”に魅せられて、速やかにワルノリした。そのことが前代遺産との断絶を招く結果となることに想いが及ばなかったようである。
それ以前に存在した旧来の地名も2字からなる新地名に置換えられたし、その後に行われた新たな地名の命名も2字をもって決定された。
自然地形が地名に反映され続けた,言わば幸運を保った地域は、この時代に”化外の地”であった北海道や東北地方の北半分のみであった。
基礎語たりえる地名をアイヌ語に頼る背景を、筆者はこう考えた。
今日はこれまでとします