にっかん考現学No.30

今日は9月9日、重陽節句=オクンチの祭りである。
その昔、長崎の諏訪神社付近で見たような、そうでないような、曖昧な記憶が、雲海の彼方に漂っている。
先月の終わり頃、台風15号が荒れ狂う韓国の地を,結果的に被害を免れつつショート・トリップした。
「にっかん」なるタイトルを使っているから、さも韓国の事に詳しいと思われそうだが。現実はその逆である。
この度の訪韓が、形式3度目。実質的に初めての訪韓である。
かなりの寄り道だが、ここの所を少し丁寧に書いておく。3年前、インチョン=仁川市内に1泊した。
それは貧乏旅行と関係する。この時は中国に3週間滞在したが、目標費用15万円以内との絡みもあって、日本からの直行便ではなかった。今となっては、我が国資本のLCCも発足したから、費用支弁の苦労は解消しているだろうが、地方在住の場合は、何かとハンディを背負わされるものだ。インチョン空港は、完全に日本のローカル空港のスポーク・シャトルを担っていたが、あいにく小松〜仁川間は隔日運行であるから、彼の地に1泊した。
よって、形式1回の入国記録は残ったが、実質的に語るべき韓国本土体験が無かった。ハングル文字へのアプローチの手強さを痛感したのみであった。
次に形式2回めの訪韓だが、それは昨年の初冬11月済州島<チェジュド>にショート・トリップを指す。
彼の地への旅を何故形式に含めるか?そのことを容認する韓国人は多いのではないだろうか?
済州島は本土と一線を画する海の中にあるシマである事実。
本土の韓国人も、当の済州島民も、互いを同じ国人と認めていないようである。どちらからもあっちは、もう1つのカンコクと考えているようである。
それは、あたかも我々が沖縄を考える時に、少し目線が揺らぐことと、少し似ているだろうか?
これは、偏見を持って接せよ。と言う意味ではない。
体験的に、シマと本土。島と大陸。国境は人工的に造り出した空間域でしかない。
海は、自然障壁が形成する天賦の境界である。人工的国境で括っても、消えない異空間域観念なのだ。
とまあ、つまらない事を長々と書いて来たが、事実上の本土滞在は、今回が初めてであったし。920ヘクトパスカルなる気象観測史上稀なる低度の中心気圧が荒れ狂う体験もまた初めてのことであった。
今日は前置きで紙数が尽きてしまった。