にっかん考現学No.17 あすかの4

この日は、大阪・奈良の府県境である古代主要道である竹内街道を西から東に越え、飛鳥を目指した。
飛鳥には古寺巡礼の真似事をして、年に何度か散策した記憶がある。さしたる当ても無くぶらぶら散歩、もう35年以上も昔の事である。
寺や古墳や古代遺跡のロケーションが、今も昔も変わらない。それは当たり前として、意外にも、道路が新設され・拡幅され、河川整備が格段に進むなど、今昔の感があった。
と言っても、今回の訪問目的は、出羽国・飛鳥神社の元に当たる神社が、
今も存在するか?  その神社はどれであるか?を現地において、探し当てよう。言わば、予備知識なしのぶっつけ本番の捜索行である。
車は、かつて知ったる?明日香村役場付近に駐めて、遠目に見える小高い丘を目指した。飛鳥寺を素通りして、東に向かう。甘樫丘(あまかしのおか)は、横目ながら少々気になっていた。下界を一望して、その後の景観が如何に変貌したかを確かめてみたい気持があった。この日は後回しにし、実現しなかった。
狙い定めた飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)は、小高い丘の上にある。
集落に付属したような、きちんと息をしている神社であった。
集落に付属したようなとは、あまり耳慣れない描写だが、村の生活の一部として日常行動に織込まれている。まあ、一言で言えば、そんな雰囲気だ、、、、
ざっと見た感じ、遥か遠くから参詣人が来る気配もなく。そんなニーズに備えた駐車場スペースも無く、つまり殆どの人が、自宅から徒歩で三々五々歩いて集まる。そんなイメージの、今時見られなくなってしまった、現在進行形の信仰が息づいているような神社であった。
これは好ましい姿として、説明しているつもりだが、うまく説得できているであろうか?
戦前の事は、もちろん全く知らない。でも40〜50年前であれば、神社は子供の遊び場であったり、待ち合わせの広場であったり、日常生活の中に組み込まれ、常動の空間の内であった。
現在の神社は、二極分化が著しいようだ。
一方は、企業のように組織化した観光施設。広大な面積と知名度を誇り、連日のように大型バスが押掛ける。
他方は、年末と年始、お祭りの日だけ、人が殺到する。禰宜・巫女も普段は見かける事が無い、人が動いていない不在の空間となってしまっている。ほぼ140年前に強行された廃仏毀釈が招いた弊害の顕在化であろうか?
この日は、たまたま日曜日であった。新生児の初宮参りらしい、盛装した家族の一団と行き会った。集落のはずれ、まさに目と鼻の先にムラの神さんが鎮座まします。そんな親密さ、徒歩感覚がほの見えたのであった。
今日はこれまでとします