泉流No.98  生命体

* 生きている  ただ偶然に  生かされて
[駄足] 昨日始めて見学した、焼き畑レポートの続編である。
白山は、石川・福井・富山・岐阜の4県にまたがる広大な山麓を誇る、標高2702mの山である。
石川県側つまり手取川流域に限れば、戦後の電源開発事業により、水没する耕地の耕作民が、民族大移動よろしく平地に移住し離農した。麓の鶴来町平成の大合併により、現在は白山市鶴来町)周辺に、集団移住した市街地があるなど、殆どが山の民の暮らしを捨てたと思われていた。
しかし、水没を免れて、従前の生活スタイルを維持した者はいたし。街場に下りた者で、平地の生活スタイルに馴染めず、どうにか復帰を画策して、実現を果たした少数の者。平地民になりおおせたが、リストラにあって無職化したり、高齢化によりノスタルジアがいや増して、通勤による農業支援者として帰農しつつある者など。世に知られる事無く、細々と焼き畑は、継続・継承されて来たようである。
ただ、主体施行メンバーは、そのほとんどが、70歳代以上であるから、今まさに本格的衰亡期に踏み込んでいることは確実である。焼き畑技術の断絶は、朱鷺の繁殖計画よりも再現性は困難のようである。
素人ながら、一番のネックは、一年生栽培植物の種子が、一度の断絶をもって半永久的に失われることにあると考えた。
さて、現地で見聞した事の実写だが、国道の側にマイカーを乗り捨ててから、相乗りした送迎車で約1時間、川のほとりを遡上し、目的地に着いた。未舗装の道路、降雨で流されてでこぼこの悪路だから、平均時速は20km程度か。およその標高は720乃至750mとか、当然に平地の畑と異なり、平らでもないし広さも無い。
水平・垂直の両方向に波打っているが、概ね8m × 9mのやや台形の四角だから、眼のこ20坪強の広さ。
斜度16〜35度と、ほぼ爪先立ちの斜面である。もちろん、切り開いた斜面以外は、雑木が密生している。
そこだけ、昨年の秋頃に人力を以て切り開いておいたのだそうだ。因に、地元の人は、焼き畑と言わず、薙ぎ畑とよんでいる。原生林状態の急斜面に飛び込み、約20年間放置されて自然に戻りつつある密林を切り払うことは、「薙ぐ=なぐ」と言う言葉が相応しいのであろうと想像した。
ここで何故か?皇位継承の神器の中に草薙剣なるものがあったな。と、ふと思い出した。
さて、火入れの前にまずした事は、小豆餅を斜面に立ちながら、ほおばる事であった。耕地の持ち主が持参した重箱から取り出され、振る舞われたヨモギ色のでっかい、噛み堪えのある、こんな杣人然とした食べ物の豪快さに正直驚きつつ味わった。立つ事すらおぼつかない、この急斜面を上り下りする体力、火と格闘する気力を養うには、これくらいズシリとした食物となるに違いないと納得した。
現場に顔出しに来た学識経験者の解説によれば、焼き畑の火入れは、平地耕作民の田植えに相当する祭りなのだと言う。早乙女が皆無だったのは、寂しい限り?だが、耕作地開墾の最初の姿が「焼き畑」である事を実見し、実感した。『田』のつくりに偏として『火』を付けると『畑』の字になることがよく判った。
『畠』の字も、薙ぎ倒され地面に置かれた雑木の倒木が、すっかり燃えると白い灰に変る。漢字のままに『白い田んぼ』であった。耕地の持ち主は、その灰が最も貴重なのだと語った。
筆者の素朴な知識では、田んぼイコール水田だが。それは、永続し固定化し見慣れている耕地の1スタイルであると再認識した。水田は漢字2文字で示すように、1文字語のように元から存在した語ではないようだ。
三ずい偏に田のつくりから成る1文字語が出現しないのは、水稲が列島の外では列島ほどの重みをもって受け止められてないからかも?と思った。
この日は、かつてないほど順調に燃得たのだと言う。時に風の具合や、面積の事情で、あの餅をほおばりながら斜面をかけずり回り、火を起こすべく忙しく立ち働くのだそうだ。我々は幸運に恵まれて、耕地の持ち主の農繁期の宿泊施設である出づくり小屋の中に入り込んで、平らな床面と座卓の上で昼食を採ったのであった。
午後は、鍬で土を掘り起こし、表面をならし、ヒエの種を蒔いた。
2年目はアワ、3年目はアズキ、4年目はダイズを作り、5年目には放置に入り、連続して20年くらい原野に戻すのだそうだ。肥料を施さない究極の粗放農業だが、自然摂理に適っている点では、徹底して生態的合理が貫かれており、ここでの摂理とは、所詮人間を含めて動物たるものは、なべて植物に寄生して生きる存在でしかない事を意味している。
地球上の主人であるとか、最高位を占める霊長類であるとか、その生命体としての、生物であることの本質を失念し、勝手気ままに生きる風潮を、真剣に考え直し、原点に立ち返る必要を思ったのであった。