生泉流No.11 地球真理学

* 人たるは  食うのみに  生きるべし  人の道なり  これぞことわり
[駄足] 今日は白山麓で行われた、焼き畑の火入れを見学した。
2011年3月11日を起点とする震災後紀元の元年に、とても深いものを感じた。
人類史の原点に回帰するイメージを持った。
食料生産の基本技術を目の当たりにした。
しかも、この等身大規模とも言えるスモール・テクノロジーは、生態学なる最新の科学に照らしても、究極の合理性を備えている実感があった。
古いものが、何でも良いとは限らないが、原始時代の基層技術に対して再評価の波が到来しつつあるようだ。行き過ぎた近現代を是正して本来歩むべきコースなり、テンポなりに引き戻そうとする大きなウェーブは、着実な足取りで近づいている気がした。
さて1〜3句だが、名言がある。世に広く行われるそれを型どおり掲げる。
人はパンのみにて生きるに非ず・・・・・新約聖書マタイによる福音書4章4節にある。
エスの返答の始まりの言葉であると言う、食前食後にラーメン食いするよう薦めているきらいは全くない。
このキャンペーンで、その名言にせめてもの一矢を報いたい。
既に人口70億人を超えてしまった人類は、個体数を削減して地球環境の破壊を回避するか?それとも人類のエゴを貫き通して地球生態系を壊滅させ、人類を含むあらゆる生命システムを絶滅に追い込むか?
二者択一を迫られるが、破壊進行時計は既に動き始めてしまっている。
おそらくイエスは、人類がそのような科学予知能力を備える存在に到達する事態を想定していなかったであろうし、人類の欲望が異常レベルまで拡大する事態や人類の単線的利益追求行動が累積して深刻な環境破壊を招く事態を想定していなかったであろう。
それほど生態学の科学知見は、未だ日が浅い。と、言わざるを得ない。
最後の句にある「ことわり」は、タイトルにある地球真理学を指している。あえて、くどくどしく言い換えると『自然摂理』と同じ意味である。
[駄足の蛇足] 
自然の中で、火を焚く。それは、究極の自然権である。あらゆる意味で、農業者の基本的生存権とも言える。
しかるに、外国はいざ知らず。この国では、禁止行為のひとつであるらしい。
筆者が生まれ育ち、社会に出た頃、そんな愚法はなかった。
今でも、愚法中の愚法であると思っている。信念において揺るがないほど愚かしい悪法だと思っている。
ヴェトナム戦争で誤用された枯れ葉剤が、ダイオキシン系の猛毒に変化し、深刻な遺伝子改変を生物にもたらす事も漠然ながら知っている。
だが、その事を以て即ち焚き火を禁止するは愚かである。
化学製品の製造に関する管理・監督を強化し、毒物に変化する懸念のある化学物質の製造を禁止するように、立法のスキームを根底から組み替えるべきだと主張したい。
上記の化学毒物規制強化への転換ならびに焚き火の復活と3.11を踏まえての原発廃止への転進とは、筆者の頭脳の中において同根の課題である。
原子力の火で、お湯を沸かす愚を冒すくらいなら、落ち葉焚きで湯を沸かして、発電した方がまだましだからである。
原子力は、化学のアトに出現した物理学領域のオハナシにして、化学より一回り大きなオハナシである。
化学が大きく化けたのは、19世紀の前半の事であった。
象徴的発明 アニリンの合成である。
1826〜56年の間に、ドイツの化学者が実験室で発見し、工業化を果たした。
科学と技術と、一神教と資本主義と、が異常接近し、不幸にして合体した。
人類史の大きな悲劇は、ここから急激に加速度を増した。
アニリン合成の100年以内、つまり一直線上の未来に核分裂物理学の誕生があった。
目の前の金儲けしか眼中に無い・”大きな物語に短絡的に飛びつくだけのオハナシ”を進める人は、新しい発明に潜むマイナスの要素・人類にもたらすデメリット事象に対して、極めて無頓着であった。
アニリンの合成は、達成国であるドイツに経済的対価をもたらし。最大の資本主義国であった英国を追い落とし、ドイツを産業革命のニュウ・チャンピオンに押し上げた。
気違いに刃物。それが19世紀と20世紀の結末であった。
ヒットラーも大きなオハナシだけを進める人達のお友達であった。
つくづく思う。行き過ぎた時計は、巻き戻し。
大き過ぎるオハナシは、等身大の規模に縮めよう。