泉流No.96〜97 払田柵

*  吾妹子は  答えに詰るか  言わず山
*  柵の丘  コブシに桜  ふじの山
[駄足]  秋田県仙北平野は、この国有数の穀倉=美田地帯である。
この地に吹く、北西方向からの季節風がある。稲の実つまり米を実らせる暖かい風である。
この地では、その風の事を「生保内風=おぼねだし」とか、宝風とか、と名付けて、感謝を捧げている。
この句は、4月28日の朝、払田柵跡(詠は、ほったのさくあと)の丘の上を散歩した時の情景を踏まえて作った。
前夜来の雨は、夜明け頃におさまり、朝食後の散歩に出た頃は、きれいに晴れて来た。
古代の木柵遺構に囲まれた、小高い独立峰の上には、発掘した時に見つかった建物の柱跡を示す、礎石傍示石が置いてあって、独特のロマンに溢れた景観である。
古代の丘は、緩やかな傾斜があり、四方を眺めるに都合の良い高さである。
その丘から、ほとんどシンメトリーな姿のふじ山が見えた。
雲が消え、霧が晴れて、その神々しい山容が見えるまで、時間稼ぎをするべく、なるべくスロウモウに散歩するよう心がけた。
先を行くパートナーには、その狙いを伏せておいての、撮影散歩だったから、こっちのスロウモウに苛立っていたかんじは見て取れた。
そのせいか?朝日の昇る方向をほぼ背にする方向に、ふじ山を確認してもらうまで、思わぬ手間がかった。
その山の名は、鳥海山、地元では、出羽の富士とも言う。
[駄足の蛇足] 
出羽とは、明治の初めまで使われた旧国名つまり律令制度上の国名である。
払田柵跡について、簡単にコメントしておくこととする。
1931年秋田県内における初の国指定史跡となった。現在使われている名称は、便宜的に所在する字名を以てそう詠んでいるに過ぎない。
歴史上の施設としての正式名称が、未だ確定しない。まったくの幻の遺跡である。
1902年頃耕地整理の作業途上、水田の地下から偶然に古木が発見された。柵状に連続して設置されており累計200本以上が掘出されたが、それ以上の関心を持つ者も無く、やがて忘れられ散逸した。
昭和に入って、地元の素封家が文字の書かれた木片を発見。報告したことから、1930年に本格的調査が始まった。我が国における木簡研究の嚆矢となった。
外柵線延長3.6km、面積87.8haに及ぶ巨大さで、古代東北における最大スケールの施設である。しかも政庁跡らしい官衙遺稿と軍事施設らしい構造も備え、同時代の出先機関として知られる多賀城や秋田城に匹敵する規模の人工物である。
遺跡用材を年輪年代法で測定した成果によれば、801年以降の伐採とされる。所謂平安遷都前後の国難時代であり。東北の蝦夷が蜂起・反乱し、坂上田村麻呂が派遣された混乱時代に当たる。
ここで言う混乱には、大地震の連続発生から鳥海山の噴火まで自然災害の多発を含んでいる。
さしもの出羽国混乱の9世紀も元慶の乱(878年)秋田城炎上をピークに暴発のエネルギーも沈静化に向かい、払田柵が使用を終えた時期は、10世紀の後半頃と考古学者は推定している。
払田柵が、何と呼ばれるべきかについては、いろいろな学説があるが、決定的なものは未だ無い。
河辺郡内に一時置かれた出羽国府とする説や、雄勝城とする説があるが、当時の払田は律令行政区分の山本郡に属したので、いずれも文献史実と合致しない。
以上が、払田柵にかかる古代考古の大きな謎だが、筆者なりの理解はこうだ。
それほど天変地異も含めて蝦夷東北の混乱は激しかったのだと。
そして、東北の地は、かくも遠隔辺境の地であったからこそ、中央の記録から漏れたのだと。
最後に、別掲のシリーズ『にっかん考現学』との関連で言及しよう。
列島内一国完結の狭いモノビュウ史観で考想する限り、歴史の真実に肉薄することは難しいとしておきたい。
東アジア地中海の対岸からの影響を軽視すべきでない。
この頃の出羽国守は、亡命した百済王族が多数歴任していること。
そして、当時国難を避けて渤海に逃れた古代韓民族が、度々多人数で出羽海岸に渡来したこと。
以上2つに絞り込み、タイトルのみ掲げるに留めおく。