にっかん考現学No.16 あすかの3

3月1日から始めたシリーズだが、テーマに相応しい研究仮説である「あすか」を取り上げたのは、5月に入ってからであった。
第1回の取材先は、既に書いたとおり、山形県を流れる大河の河口に形成された酒田市の一画=平田町にある、飛鳥神社であった。
前稿では、第2回の取材先となった、大阪府の羽曳野・柏原市付近の印象を紹介した。
これ等は現代の行政区画名だが、古代のそれでは、河内国安宿郡(かわちのくに・あすかべぐん)と呼ばれた地域である。
そこを訪ねたのは、もちろん始めてのことだが。近つ飛鳥とも呼ばれる土地である。
今回の研究仮説は、未だ詳らかでない。とりあえず、アスカの音韻を追いかけるつもり、そんな仮のタイトルにしておこう。
アスカの音韻を持つ地域を可能な限り訪ね、隣地体験を味わい、何かを感じ、それを積重ねることから始めようと、思い立った次第である。
さて、本日のあすか第3稿は、飛鳥戸神社を離れ車を走らせながら、竹内街道(古代主要道のひとつ。現代は大阪と奈良の間にある府県境)を越えて奈良県に入ったときに、ふと思った疑問について触れる。
果たして、どっちが『近つ』で、どっちが『遠つ』なのか?
俄に判らなくなった。
判らなくなった理由は、何だろうか?何か根拠があるだろうか?
遠近を決める人物が立っていた場所は、どこだったのか?
ひょっとしたら、対馬海峡の向こうに立っていたのだろうか?などと、にっかん考現の核心に迫るきっかけになるかもなどと、想像を巡らしながら、奈良の低地に向かっていたのであった。
ヒント、手がかりは、容易に見つかった。
インターネット検索である。出典の明示があれば、確認・検証がたやすいのだが。この国の常で、そこまで行き届いた見解表明者は圧倒的に少ない。
近つ飛鳥博物館・風土記の丘(隣接地の南河内郡河南町に所在)の館長談話文中に、「近つ飛鳥」なるメッセージがある事が判った。
出典の明示が無かったので、実際作業としてそれからが少々骨折りだった。
古事記/下巻、履中天皇の項にあった=岩波古典文学大系では288・289頁。
同署の注によれば、「近つ飛鳥」=河内国安宿郡安須加部とし、
         「遠つ飛鳥」=大和国高市郡飛鳥とし、
         遠近を決めた人物=水歯別命(後の反正天皇)であり、
         遠近を決めた場所=河内国にあった多治比・柴垣宮であるとしている。
因に、反正天皇(はんぜい。第18代、在位406〜410。仁徳帝の第3皇子にして、先代の履中天皇は実兄)の宮廷である多治比・柴垣宮は、現在の大阪府松原市上田にあったと言われる。
今日はこれまでとします