泉流No.89 鯉のぼり

* 雪巌  最上白川  鯉のぼり
〔駄足] 春らしくないのだが、時が来て花が咲くので、はるばる北陸を発ち、4月25日は最上川を遡上しながら東東北の大崎平野を目指して、のんびり走っていた。
1温3寒の割合で、天気は推移する傾向にあった。困ったことに、花を愛でる予定の日には、雨に降られ、移動が主な役割の日には、晴天に恵まれた。
望むべくは連続4温日なのだが、せめて逆転して1寒3温となって欲しい、移動の日は降られるも已むなしとの願いも、全く叶えられずじまいであった。
庄内から一関に向かう途中で、県境の町=最上町で、この年の冬を象徴するような光景を見た。
走行中の、運転をしながらの、ほぼ一瞬に観ただけであったから、時間と事情が許せば、引き返して写真記録を添えるくらいの、科学検証姿勢が必要であったのだが、車内のディスカッションで、一応の答えらしいもので落着したので、道路を引き返すことはしなかった。
岩の固まりを見て一瞬ぎょっとした。
通過した最上白川の橋のすぐ横に、対岸の堤防に根っこを据えたような、明らかに場違いの、そんな大岩が存在する筈がない。
答えは除雪と雪捨てが作り出したモンスター。
川沿いの町、その街中に連日?降った雪が。連日運ばれ、川に捨てられた。
巌のごとく固まったまま、消える間もなく、鯉のぼりを掲げる時節になってしまった。
そのように考えてみて、なるほど過ぎた冬は豪雪であり、日脚が伸びる時候になっても、思ったほどの気温上昇にはならなかった。
この地もやっぱりか
〔駄足の蛇足]
この旅のひとつの狙いは、酒田から平泉の間をさっと一走りすることであった。
最上川下流から中流までをウロウロして、もう2・3年経つが、、、、酒田と京都の結びつきは、紅花に象徴されるように、あまりにも有名なのだが。
酒田の街の起こりを巡る伝承の中に、鎌倉時代の始め頃、源氏に消されてしまった奥州藤原氏の遺臣集団が存在したとあることを知った。
奥州藤原氏の政権中心は、最近世界遺産に登録された平泉であった
平泉は内陸に立地して、どちらかと言えば、かつて京都に次ぐ位置を占めたであろう精神的文化中心のイメージであり、方や中世以降に拡大の一途を観た商業・物流の港である酒田とは、イメージ的にうまく噛み合ない。
そんな感想を抱くのは、我一人ではないように思える。
しかし、考え直した。地理的にも機能でも互いが補完し合えると思いなおしたのだ。
京都と平泉を繋ぐ海と陸(より厳密に言えば海と川なのだが)の結節点の役割を果たしたのが、酒田であるとの仮説を掲げることにした。
もちろん、陸路のみで移動・輸送は、完結する。多くの人は、京都〜平泉の間を行き来する有名な人物「金売り吉次」の旅行スタイルを思い出すことであろう。
挿絵がもたらす固定観念は、幼少年期の基層記憶に由来するからか、確固たる信念に至る。
吾が仮説は、これに反する暴論であろうか?仮説を認めてもらうのは、至難の感がある。
でもまずトライしてみよう。
とりあえず現代の基幹たる主要地方道をマイカーで走行してみる。
仮説上の輸送路は、河川舟の便であるから、いずれ最上川と最上白川、江合川北上川の連絡と積み荷を陸路移動した可能性を推理してゆくことになろう。