泉流No.86 春川増水

* まんまんと  雪解け水ゆく  春の川
〔駄足] 4月22日少し大きめの車を転がして、家を出た。例によって多目的の放浪取材の旅である。
時に花を求め、人に会って話に花を咲かせ、道を尋ね、川を眺める。
狭い道での切り回しを考えると、移動車両はより小さい方がよい。しかし、車の中で食・住・衣を原則として満たしたいと思えば、車は大きめにならざるを得ない。
我が取材の旅は、漠然とした目的やぼんやりした最遠隔到達目標地はある。がしかし、時にコース変更が縦横だ。だから、宿泊を旅館に限定し予約地にとらわれるのは、苦痛である。ずぼらな性格に、車中宿泊は実に魅力だ。
まだある。大きめの車は、ディーゼル・エンジンの上に座席があるせいか、視点が高い。
途中経路はこれまでと同じ道を何度も行き来するものの、乗用車とは異なる、奥深い眺望を新発見する。それが大きめの車の予期せぬ効用である。
さて、句の意だが、高速道路を走りながら観た。
何の新味も無い、いつもの光景である。今年は長い冬で、やや水量が多いようだ。
にもかかわらずありふれた光景、月並みな風景だが。
この繰り返しも、また自然の一要素である。
〔駄足の蛇足]
ここまでの短い文章で、ほとんど説得できるとは思えない。狭いシマグニの民は、徹底した固着の”ひとびと”であるとつくづく思う。他の地域について無関心、そして異なる生き方を排除する。それは「面従腹背」とも重なるこの国の国民性の一面でもあるようだ。
脱線気味のついでに、すこし深入りするとしよう。
旅の記録、紀行文学は、この列島の文学ジャンルに占める一大山脈である。古くは、土佐日記十六夜日記。
そして紀行文学史上の最高峰は、松尾芭蕉による『奥の細道』と言われる。これ等は、国民的常識である。義務教育の中に、タイトルだけであれ必らず顔を出す。
何故ならタイトルに聞き覚えがあるだけで安心する、それがこの国の文化作法だからである。
そのワンパターンこそが、最大要素にして最大重量の国民性=拙速かつ浅慮が生む軽薄淡考=を形成しているものと考えたい。
次に、この山ほど、無数に存在する紀行文だが、その内容がこれまたワンパターンの繰り返しなのだそうだ。この見解を伝聞表現にしておくのは、無数にある紀行文を全く読んでないから。
ドナルド・キーン氏の報告<1983年7月〜84年4月朝日新聞に連載=百代の過客>に従っている。
紀行文学のワンパターン振りは、『奥の細道』を抜き読みした体験から、容易に推定できそうだ。
実景描写あり・ねつ造風景あり・体験に基づかない中国古典文学からの引用ありなどなどを思い出す。
そこにある井の中の知ったかぶり風潮は、弥次さん喜多さんや助さん角さんを(=セットにしてだが)友人扱いし、直に聞いたかのような親密感。
詰まるところ、万人共通の関心と結論のありように行き着くのだが、、、、、
そのことに落ち着かないのは、筆者唯一人なのかもしれない?
深入り脱線話から戻ろう。
以下は旅の定番?パターン
格安・団体・ワンパックの旅行も盛んで、時に高速道路での痛ましい事故=想定外の黄泉国への一括移動とあいなる時勢だが。旅は須らく計画して行くものであり。旅の食・住・衣は、とにかく盛装して家を出る・予約した旅館に泊まり・豪華に上げ膳据え膳。さもなくば、高名轟ろくシェフによる有名レストランへと。
そしてメディアが届ける旅番組だ。旅行業者のお先棒を担がんばかりの宣伝臭い内容、これまたワンパターン満載である。
しかし例外はある。
菅江真澄や森敦が、遠く異境に漂白し。果てた一生は、旅と言えば旅だが。
筋書きがあっても、仮にパターンがあっても、全く手の届かない。
それ故にどちらも無かったように思える前人未到のそれである。

百代の過客 日記にみる日本人 (講談社学術文庫)

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菅江真澄遊覧記〈2〉 (平凡社ライブラリー)

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月山・鳥海山 (文春文庫 も 2-1)

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