にっかん考現学No.11

にっかん考現学は1日から始めたシリーズで、本稿は第11回である。
直前の第10稿で、原発の去就についての国民投票実施を述べたが、今日はその補足説明を行う。
まず、国民投票は、言葉のみあって。日本列島の現行法規には、全く存在しない。
では、立法機関である国会において、仮称=国民投票法の制定を待ち。国民投票の実施に入ることが出来る。但し、これは単なるストーリー。おそらく、そのような経過を辿る可能性は皆無であろう。
それは国会が自己の力量を軽くするような措置=国民投票法の制定に向うとは考えられないからである。
従ってスジを通して法規論に拘れば、「国民投票ストーリー」は、いつまでもストーリーのままで終りそうだ。ここではもう少し、想定されるスジ道のその後を描いてみよう。
あいも変わらぬ、国会を横目に見つつ行政は、立法府の無能・無策ぶりを踏まえて。現行の原発政策こそ金科玉条とばかり、なし崩し的に原発を継続させる事態となろう。
それで、国民は果たしてハッピーなんだろうか?
スジを重んじて自己を抑え、被爆死も已むなし。と名ばかり主権者、実体無権の国民不在状態を納得するのであろうか?
このスジ論は、『悪法もまた法なり』とする法律論しか持たない、この国の貧しいガヴァナンス・レベルに相応しい。
その根底には国民教育で留まり、義務に従順な国民しか育てない偏向した教育現実がある。このままでは国会も頼れず、行政はまして国民指向であった実績すら一度も無かったから。総国民は、原発性慢性便秘症状でもって憤死?する運命でしかない、、、、、
それでは、国民教育のレベルを脱し、市民レベルの普遍的学習をこなした段階に達したらどうなるか?
そのレベルにおける国民総意に立つ政治の姿は、おそらく以下のようであろう。
立法府も行政府も、最大多数の付託を受けた政策運営を行なってない時。国の構成員である個々人は、公聴会の開催やリコール請願などを行うことが出来る。
これは、共和政体や民主体制国の当然の社会ルールであり、市民に許された直接的な選択肢の一つにして、当り前の法規定である。そして、その延長に国民投票があるのだ。
では現実に戻ろう。法律学のみあって、政治学不在状態の後進国で。そのようなルールを想定してないか・意図的に排除してある君主制政体の場合は、どうなるか?
政治学音痴のやらせ教育によるガヴァナンス・レベルからブレーク・スルーして、開かれた政治学が機能する『まともな社会』を構築するネクスト・ステップに達するしかない。
そして、『まともな社会』になった後に、新しい法律をもって国民投票や構成員による直接請願のルールを。つまり事後追認的に設ければよいのである。
この段階が成就するまでは、超法規的状態でしかないが、主権者である国民の総意は、十分に反映されており、事実上の遵法環境が維持されていることになる。
百数十年も前に設けられた間接政治の仕組を、不磨の大典として。国が転覆した後、更に60数年超も手つかず状態で、保ち続ける意味がどこにあるだろうか?
国民の意思がストレートに反映される直接政治の仕組を、この原発地獄からの打開を契機に打立てるべきである。
基礎修正の働らかない時代錯誤の法制度に縛られ続ける限り。アメリカの悪者どもが暗躍・膨張し、国民の意向がシャボン玉よりも早く消える無念・妄執の現状=60数年超のおぞましい暗闇=が続くだけである。
今日はこれまでとします