にっかん考現学No.5

1日から始めた新シリーズの第5日・5稿である。
さて、受信だけしかない一方通行・在来型メディアは、東日本災害の1周年報道オンリーに傾いて、朝から晩まで垂れ流し状態だ。
ワン・パターンにして、ワン・サイドの採上げ方。この国が著しく形骸化に向うことを示している。
これほどの大災害であるから、被災者にして被害者でもあり、判然でなくも被爆者である立場の人が、厳然として存在はずだが、驚くほど平然として動きが無い。
行政が無策に徹して、安全宣言を発表するなど。ダッチロールの低迷操業、対・外国信用は墜落した。
当事者であるはずの東電が、輪をかけて秘密主義かつ無責任振りを発揮しており、北朝鮮と大差ない極楽演技を全く恥ない様子。
ただただ、無駄に時間のみ推移している。
こっちの知りたい方面の情報もまた、進展がないまま1年経過してしまった。
その知りたいこととは、即ち原発はすべて危ないのか?それとも、フクシマ設置の古い方式だけがダメで、他の最新型はそうでないのか?
その辺の問題区分け・課題整理が進まないことについて、苛立を覚える。
行政のスタンスを観て、東電の当事者認識の欠如振りを思うとき、この国の何事に対しても”空”の立場を摂り、立ち向かおうとしない、突出した国民性を思う。
”またも、愕然とする”・・・・
自然災害が多いこと世界有数にして、他に類を見ないから。諦めることに慣れ、過ぎたことを淡々と水に流す。端然と立直り、速やかに忘れる。
外見に表さないことを旨とし、感情的な表出をはしたないと嫌う。
その傾向を”良い”とするべきか?それとも「悪い」とするか?は、決めかねる。
だが、そこにつけ込まれる危険性がある。それはまた、欠陥的要素を孕んだ事実として揺るぎないことを忘れてはならない。
今日はこれまでとします