にっかん考現学No.4

1日から始めた、新しいシリーズの第4日・4稿である。
教育されて、つまり国民教育されて国民となる。その当り前の状態に対して、何らの疑問を持たない状態に、いつまでも留まり続ける。
それではいけないのだが、そう想わない人。気付のない人に気付かせることは、実はとても難しいことだ。
では何故?気付かないか。
気付のないことが、優れた国民として教育されているのだ。一言で言えば、この国の社会科学の中に政治学なる科目が欠けているのである。共和制と君主制との違いを述べられる知識人が果たして、どれだけ居ることだろうか?
殆どのエリートは、実利のある法律学や経済学から履修するので、その前にある・底に沈んでいる政治学について無知なのだ。下手に政治学の知識があると出世の妨げになることがある・・それもある面で一理ある。
不満を持つ人に、不満解消の方策を示すことは容易だが。不満を吐露しようとしない人に、新しい道を促す。それは、3.11悲劇が起った今日でも、難しい。
それほど、この列島には、何か理解し難い、人として共感を分け合う難しさを感ずる。
市民としてのナイーヴな心が乏しい人が多いかもしれない。
他者に向って、胸襟を開いて本心を訴えかけたり、意思表明をすることを阻む何かがあるのかもしれない。
まだ他にあるかもしれないが、もう私の頭の中に、他の選択肢は無い。
レベルを下げれば、思いつくことは、未だ若干あるから、各論として、列挙してみよう。
まず、国民教育された国民が支持する国の体制を、国民国家とフツウは呼ぶ。だが、細かいことだが、国家なる言葉遣いが感心しない。国は家ではない。そのこと=つまり用語を明確に吟味して、理不尽なことを否定する心構えを明確にしていきたい。
私流に言換えれば、国民国体制となる。
3.11の地震津波原発を味わったのだから、国民国体制を脱して。1日も早く新しい、市民社会へと進化したい。
では、国民国体制と市民社会とでは、どこがどう違うのか?
今日のスペースで、一つだけ言っておこう。
市民社会は自己責任体制である。自分の目で観て、自らの頭で考えて、自分流の表現で、内心を語る。
それでもって、自ら発した言葉の責めを自らが負う。
そんな単純な初歩的なことが、この国では未だ実現していない。
既に、第1次世界大戦後に実現している欧州社会に比べて、この国は2回週半ほど遅れてしまっている。
この国で、ほぼ1年前に起ったことが、平成の敗戦とか、第2の敗戦と言われる理由もそこにある。
戦後に、戦前のルールは替えたから、古いものはすべて消えた。との思い込みがある。
だが巧妙に、そう言いくるめられているだけで、現実は少しも改まっていないのである。
そのことをしっかりと、認識しないと、3.11のような悲劇は、これからもまた起るであろう。
自由に発言することが許されない=ムラハチブを畏れる深層にある心の状態。つまり、発言を自己規制する、意識下か・もしくは無意識下での息苦しい状態は、今後も続き。その結果、役人は、原発安全神話を性懲りも無く再び持出そうとするであろう。
何故なら、事実や実態はどうであれ。安全であるとの、無根拠にして・無責任なゴタクを掲げ通せる間は、奴らは何もしないで。高給を受取り、おチャケ飲みの優雅な勤務状態?を続けられるからだ。
その出鱈目を許して来たのは、私も含めた国民一般の言い出しっぺにならないでいようとする。心構えのありようにあったのだ。
今日はこれまでとします