にっかん考現学No.3

1日から始めた新シリーズの3日目・第3稿である。
地球のどこかに起ったことは、遅かれ・早かれ、すべての人に漏れなく累が及ぶ。そのことを我々は、忘れがちである。
列島人が、観ても観ぬ振りをし、おかしいと想っても声を飲み込み、少なくとも言い出しっぺにならないように振舞う。
それが、廻り回って、原発事故を回避できない役に立たない安全神話を形づくる基礎構造になり。
日頃勿体ぶるが、肝腎の時に全く何も出来ない。行政府の組織体=社会のお荷物化した伏魔殿まがいを横行させたのである。
第5流の行政府や第7流の超名門企業の周囲にたむろする我々だけが、一流である筈がない。かく言う私も含めて、第5〜7流の間に位置する。言うところのダメ印国民なのだ。
こういう言い方は、どのような窮地に陥っても、フツウのニホンジンは、自らに向けても、他者に対しても、しない。
そうしないように、教育されているからだ。それでよしと想っている。地震津波原発後の今は、そう思って来た。と過去形で書く筈だったのだが、3.11の前後を通じて、はっきりと残念ながら、未だに被災者も被害者も、格好よい国民像を演じ続けている。
そんなにやせ我慢をして、本心を吐露しないことが。そんなに格好よいことだろうか?そこが開けないからこそ、いつまでも第5〜7流国民であり続けて、ダメ国民を載せたまま。日本列島は、日本海の海底へと沈没して行くことであろう。
フクシマで起きたことは、我身には起る筈がない。と、想っているのであろうか?他人事を我身と重ねて、思いやることができないのだろうか?
感情を持たない、心の内を他者に明かさない、教育されたとおりの演技する国民を演じ続ける。その不幸に立ち向かわず、個人的感情であると決めつけている限り、孤立と独歩を引受け。他者と胸を開いた、共感を持つことは出来ない。
では、どうしたら良いのであろうか?
それを明日考えましょう