泉流No.70 雪払い

* 雪を掻く  白星続きで  はるの風
〔駄足〕 よくもよくも、こう雪が降るものである。
マウンダー極小期・第2期の初年くらいに当っているようだ。
この1週間くらい連続、日によっては2回も出動するとなると、視界と同じ白一色の勝ち続き、独り相撲にも飽きがくる。
欲しいのは、あきでなく、はるの風だが。雪を解かす春風ならぬ、肩や腕が張って、絆創膏が欲しい方の貼るである。
それで第3句は、はるのふうと詠んで欲しい。
〔駄足の蛇足〕 1つの言葉を2つに使い分ける。これはさぶいとか、親爺ギャグとか、総じて女性軍に不評らしい。
1音素・複数の意味は、詩歌に限らず、日本文学の一つの要素的伝統であって、然るべき評価を与えるべきであると愚考する。
ただ、現実問題となれば、男文字・女文字の使い分けと言う性差による文字使い分けの歴史もあり、表意文字に疎い方もいる。それもまた一面の真理であろう。
出雲阿国が始めた歌舞伎も、伝統文化となれば、男の独占舞台と化してしまったせいか、漢字文字表記と詠みの間の乖離には、驚ろく。ほとんど、こじつけか、すっ飛ばし詠みの感じだが、にもかかわらず、江戸期の女はよく通ったらしい。
もう1つ、今年は古事記1300年季にあたるそうだ。
偽書説は、かなり早い時期に湧き起ったらしく、紆余曲折を経たらしい。だが、これもまた、江戸期に国学の本居氏が長い論文を書き上げて後、おおっぴらに口にしにくいムードになっているとか、、、、
近年、上表文を書いた太安万侶の墓が見つかり、実在した人物の手になる文献として、格段に信憑性が増したものと愚考していたら。さにあらず、本文は可としても。上表文の方は、更に疑念が深まるとする説もあるらしい?
その理由に、かくも立派な歴史文献に、そのような下級官人が上表文をつける筈が無い。だから、上表文のみが偽書であるに違いないというのだから、いたく本居サンに肩入れしておきながら、他方の安万侶クンにはいちゃもんがつくものだなあと、愚考している。
音つまり口と耳に拠る・文字に拠らない歴史文学の時代は、列島においては、圧倒的に長い時間の経過を。対する物を媒介とするつまり手と眼に拠る・文字に拠る歴史文学の時代は、とても短い。
前置が凄く長かったが、言わんとする所はこうだ。
長い時間軸を持つ口伝えの伝承系歴史が、文字導入後のある日、太安万侶の手を借りて眼に頼れる文献系歴史の要素を加えたのだが、つまり、アクセス手段が拡大した。
本来、そのことに着目する必要があるべきなのだが、世の力ある人には、いろいろの思惑があるらしく、複雑な考証と口上が備わるようだ。
なんとも、不自由な事だ。と愚考する。
○ 文献史学が、唯一の・主流の研究領域だと想い込まない方が良いのではないか?
○ 文字の文化が、自動操縦の船か、船の上に置かれた三宝下の上に乗って、非人格的存在として伝来したものと考えるような国粋的論理は、非科学の誹りを免れないのではなかろうか?
○ 稗田阿礼ならずとも、伝承は女性の領域の仕事であるし、口承を受取るにふさわしい文字と言えば、表意文字よりも表音文字であろう。
○ 古事記を近現代国家観を以て、それも官製レベルの歴史書にまで、無理して押上げる必要は無いのではないか?
○ 歴史とは、つまるところ、複数の目撃者が居て、官であれ民であれ、百人の同時代人が生きておれば、百様の伝承・文献が残されたに違いない。
男文字も女文字も、その両使いがあっても、おかしくないのではないか?
未成稿です