泉流No.67 佐渡燃ゆ

* 島ひとつ  燃やしつくした  あかね空
〔駄足〕日本海沿いに新潟へ向って、マイカーを走らせていたある夕べ。あまりに落日が豪快であった。
松林越しに砂浜が見えたので、暫し車を止め。見事な夕陽を眺めていた。
日本海は、やはり夕暮れである。
海も広いが、茜色の空はまた、その何倍も大きい。
飽く事無くみていた。自然のスケールに圧倒され、早く家に帰ろうと車を飛ばしていたことをすっかり忘れていた。
やがて、少しづつ茜の色は暗さを増し、次いで、佐渡の島人が点す家々の灯火を眺める頃に、家路に戻る手筈であったのだが、想定はあくまでも手前味噌の都合であった。宛は外れ、暗さの中を歩いて車に戻ったのであった。
〔駄足の蛇足〕
この句を詠んだのは、10年程前だが。その頃目蓋の奥に浮んだ目撃風景は、更に15年程遡る新潟勤務時代。句にある佐渡は、今は市名かつ島の名だ。
当時は一島一市でなく、新潟県の一部を成す。
呼び名の佐渡・越後は律令下の国名で、時代によって出たり入ったり揺らぎがあった。
越後なる。古くて新しい地域名が出た序でに、少し地名と範囲を述べる。
文献上の初見は、続日本紀文武天皇・元年(697)。越中の国から分かれたようだ。それ以前の地域名であった越の国から前・中・後の3国が一挙に分かれた可能性が強い。ただ一挙分割が何時だったか判然でない。
次に、和銅5(712)年、越後国出羽郡を割いて、出羽国を設けた。
それ以後、上述した佐渡の併合・再分離を除いて越後の範囲は,幕末まで動かなかった。
さて、新潟の地名だが、これも文献上の初見は、かの上杉謙信の武士団に絡む文書と言う。物流港への課税は、戦国期でも相当に魅力であったようだ。
古くは、信濃川阿賀野川2つの大河川が合流して海に注いだ。日本有数の重要流通港。
特に律令時代。官物輸送の結節点として、日本海南北移動の中継点として、不動の地位を保っていた。
信濃川の上流に当る越後平野・魚沼・信濃国の産物や阿賀野川の上流に当る蒲原平野・会津国の産品などが、公租官物として川舟で運ばれる。
河口合流水域である新潟港に一時集積され、外航する船に積替られて、敦賀に回漕されたであろう。
現在の新潟は、河川付替工事などにより、過去の状況を伺うことが難しい。
因みに水陸で培った地位を空にまで及ぼす必然はない。だが、空港開設がタイムリーであったせいか?20世紀航空機の時代にも、外に向いた窓だ。
対ロシア商業航空路が開かれている。