泉流No.55 エナジー

* 守衛士の  焚く火は今も  な忘れそ
〔駄足〕今年も残り10日ちょっとになった。風の強い夜は、寒くて、うるさくて、眠りが浅い。
3月以来、危ぶまれた全国配置の原発が、次々に運転停止に入った。運転中の突発事故がもたらすあらゆる生命を脅かす懸念は、幾分緩和されたかもしれない。
しかし、ただちに電力生産量の減少を招く。寒さに向かう折柄、エネルギー不足で悩まされそうだ。
そこへ対イラン貿易決済問題が浮上、トモダチ作戦の同盟国?が、更なる追い撃ちをかけつつあるとか
9月にバリ&ギリ・トラワンガンの間にある、ロンボク海峡を視察して来た。もちろん、イラン原油が日本のエネルギー生命線であることを踏また視察である。
がさつに考えれば、食糧もエネルギーも自立しない日本が、その窮迫した事情を熟知しながら締付けを増すアメリカの更なる追い撃ちに耐えられるだろうか?
日本がイラン産原油へ過度に依存し始めたのは、相当に古い事であり、アメリカが描いた筋書にただ載った事情もあるなど、いかにもこの国らしい無策ぶりが現在を引きずっている。
そしてまた、イランとアメリカの対立・角逐から、入手困難となる懸念が一挙に具体化して来た事だが、これもまた昨日今日起った事態ではない。
遡れば、イスラエル建国から憂慮され始めた事とも言える。
21世紀初頭にまずイラクに手を出し、その国力を削ぐ事に一応の成果をみて、駐留兵を引上げた。その返す刀で今度は、その隣国イランに難癖を付けているわけだが、アメリカの行動原理は比較的に判りやすい。中東戦略の第一は、イスラエルの保護と防衛にある。
現今のアラブの春は、イスラエル対抗勢力であるイスラム圏国・地域の内部動揺であるから、アメリカを利する短期的?意義があるかもしれない。
大国サウディ&トルコは、イスラム圏ながら、民族的背景においてイラン同調側ではないと言えそうだ。
純化して言えば、アメリカは軍産体制に立つ、死の商人が支配する国だ。日本が原発事故が主因で、政治的にも経済的にも再起不能にある状況を見て取り、はっきり、イスラエルのためにイランを潰しにかかり、その余波で日本が立ち行かなくなるも已むなしと、オバマは舵を切ったようだ。
日本は、企業人だけが国外転出を画策し実現してきたが、消費する立場の者も真剣に考えるべき時期にあるかもしれない。
食糧自給は既にして、更にここにきて、近未来のエネルギー危機が肉薄しつつあるからだ。
さて、以上は焚き火の連想。以下が句の意。
守衛士<もりえじ>とは、王朝風景だが、施設を護衛する警備員だ。寝ずの番での焚き火。照明用・調理用は当り前、寒いと暖房兼用。
その焚き火は、平成以前のごく当り前の風景でも、今はもう見る事の出来ない、忘れた景色である。
消防関連法規により、焚き火は禁止された、、、、
茶番法規が規範力を発揮する。不思議の国のアリスならぬジュリィーか? 
この国ならではの、その馬鹿さ加減を忘れるべきではない
〔駄足の蛇足〕
○ 御垣守 衛士のたく火の 夜はもえて 昼は消えつつ ものをこそ思え・・・百人一首 49
を踏まえている。
因みに、作者は?大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ・921〜991。神祈大副)とされるも異説あり。
恋歌と解されているが、ここでは珍説を唱えたい
○ 来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ・・・百人一首 97
作者は藤原定家(ふじはらのていか・1162〜1241。最上位官職は権中納言)だが、撰者歌が97番なのは何故か?誰が採番したか?疑問である。
○ 人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに ものおもふ身は・・・百人一首 99
作者は後鳥羽院(追贈号ごとばのいん・1180〜1239。第88代後鳥羽天皇=在位1183〜1198。退位後も1221承久の乱まで院政を敷き実権を握る。隠岐の島<島根県隠岐海士町>に配流され、その地で崩御した)だが、文学史上歌の最盛期を演出した中心人物でもある。
百人一首は定家の排他特許ではないものの、彼が関東御家人宇都宮氏の求めに応じて作成した小倉山荘色紙が原型にして代表的存在である。
後世の室町期に茶道が隆盛となり、茶室しつらえに色紙が珍重され。室町後期に宗祇が歌道入門に位置づけして、百人一首と言えば定家の小倉山に極まることに。秀吉の求めが因となって後裔名門武士宇都宮家は断絶されたとの説あり。
さて、作成者定家の隠された制作意図が、この3首から特に明瞭に読み取れる気がする。
まず衛士だが、この仕事に就くのは、宮家と公家に仕える武家である。「さむらい」の語源は従者に由来。
次に『待つ人を』の待ち人は、隠岐島配流中の後鳥羽院であろうと推測したい。なぜ定家は院を待ち続けたかと言えば、互いの年齢差18年の同時代京都人である他に、性格剛直、天才的歌人同士など共有するものがある。
彼等の生きた時代に鎌倉幕府が誕生した。かつて仕えた身分の者達である武士階級に政治の権力が移って行く同時代的観相が、最後の歌に要約されている。
蛇足は以上である。
そう考える理由は、こうである。
この3人には、もっとマシな歌が沢山ある。あえて、秀歌を選ばなかったのは、訴えたいものがあったこと、しかも色紙を求めた相手が、新興武士階級に属したまたま歌好きだったからかもしれない。