わたくし的21世紀予知試論・第16稿

最終稿の後半である。
農地改革は、社会政策としてそれなりであって、経済政策としては、下記のとおり評価できない。
経済事業は、何の業種・業態であれ適性規模がある。それを割込む零細規模は事業存続が困難であり、ふつう生業と呼ばれる。
1947〜50年の3年間、強権かつ拙速をもって行われた農業改革は、名ばかり自作農創設であって、実態は生業規模の零細農家を続出させた。
それは、当該農家にとって、救済たる解放令ではなく、再度の放置令でしかなかった。
その証拠に、間もなく多数の農家子女が、金の卵と呼ばれて、大都会に運ばれた。集団就職列車が着く上野駅は、中学卒業と同時に親元を離され、格安賃金をもって底辺の単純労働を担う日々が始まる場所。到達地にして始点、まさしく『ああ 上野駅』であった。
酷な言い方だが、これ等の若年都会流民こそが、農民哀史第2ラウンドの生き証人であった。そして農村に残った彼等の父や兄もまた、農閑期の冬には、出稼ぎ労働者となって底辺の単純労働を担い、戦後の高度経済成長に貢献したのであった。
余談ながら、戦後の都市復興と隆盛は、農村からの収奪と衰退とを、土台にして築かれた一面があった。
もう1つ、農地改革が経済政策としてお粗末であるとする根拠がある。それは深刻化した自給率の低下に見るとおりである。
もちろん、自給率の低下を1つの原因に括る事は適当でない。
この度新しく耳目を開いた事は、
○ 形を変えたコメと輸入小麦との角逐であった事、
○ 中央官庁の売国殿がアメリカの手先となって国産米穀を潰しにかかった事、
○ これまた巧妙に隠された日米間の冷戦構造である事、           などだが、
詳細は「ラーメンと愛国・第1章」を参照されたい。
要するに、今日の食糧自給率低下の根底に、日本国力粉砕と小麦輸出拡大を狙うUSAの戦略があったことになる。
その後も、農業者の適性規模化は、一向に進まない。1952年の農地法による農地の売買規制=流動化を阻止する国策が、原因とする説もある。
この事を踏まえて、3度目の農地改革を提唱したい。
○ 長期化著しい休耕田地を緩やかな手段で地域自治体が買上する。
○ 買上げた農地を希望する既存農家と新たに農業を志望する若者に貸与する。
○ 適性規模水準以上とし安定自作農化する。
○ 公的施設が経営相談に応じる。
さて、読者のお考えはどうであろうか?
農業に若者が従事する?  そりゃぁ愚策だろう?
説得性乏しく、成功などおぼつかないだろう?
はい、一応、抗弁しましょう。
近未来の新しい農業は、一言で言えば、累算第6次総合農事産業である。
耕作から食品調理までの全行程を一環担当し、一貫事業とすることで、付加価値向上を目指す。従って、既成観念の延長にある耕地の大型化を指向する、古い単純思考型経営ではない。
地産地消から自産自消へと新分野を目指し、パイオニアとしてむしろ適正耕地面積の引下げを目指し、スコープ・メリット=範囲の経済性を追求する新経営手法を、若い力でもって確立してもらいたい。
そして、この農業改革の主眼を、若者に働く機会を与えつつ食糧自給率100%超を達成することに置く。
農地を公有に据置きあえて貸与地にする理由は、一旦就業した若者の農家廃業を容易にせんがためである。
労働機会の開放性とは、1業種・1企業体に終身縛り付けないことにある。収入の安定性を図りつつ、労働の流動性を維持する施策は、思考柔軟にして見識豊富な市民を増やす。
そのようにして創成された市民が増える、話し合いが成立つ社会に移行する、そのことは、公正さの構築であり、理想への近接である。
最後に、「ラーメンと愛国」第1・2章に粉食の記述があることに因んで、一言述べたい。
コメを食うことに拘りはないが、コメにブランドがあるのは明らかに行過ぎである。ブランド主義は邪道であり、粒食でのみ成立つ隘路だ。それに、ブランド主義と自給率向上策の並立は矛盾である。
ゴパン活用などの米粉調理は、ブランド主義を立消えさせる良策と考えたい。飢餓対策、調理方法の多様化の面からもコメの粉食による用途拡大は望ましい。
モンスーン気候の高温多湿の風土は、やはりコメ生産に最も適しており、農地の現況もまたそうなっているようである。

ご拝読ありがとうございました・・・・完