わたくし的21世紀予知試論・第8稿

今月1日から始めた”わたくし的21世紀予知試論”だが、初日3つの予知現象を掲げた。本稿のタイトルも前時代的に大袈裟だが、予知現象なる言葉もまた、いたく構え過ぎていて時代錯誤的である。と言えない事も無い。
では、何ゆえに、そう言いたいかと言えば、日本の凋落=それは間もなく30年目のサイクルに入りつつあるが、この度の大災害でジャパン・ネグレクティングは更に深刻さを増しそうである。
その昔のジャパン・バッシングの華やかさが懐かしく。郷愁すら覚える。
何も屈辱的外交だから大国を指向せよとハッパをかけたいのではない。若者が生き生き溌剌としていてくれる。国際社会の場で、相応の役割を果たし、個性を発揮する存在として一目置かれる。それで良いのである。
今日第8稿は、2つ目に掲げた予知現象である新刊書籍「ラーメンと愛国」に啓発されて述べる。
昨日、日本の行政法規は、伏魔殿である。と、言ってしまった。
要約として短縮は理想であり、出来過ぎは判りにくい。
そこで、伏魔殿とする由縁を、今日詳説する。
三権分立とは、現行憲法が掲げる看板の一つだが、看板に偽りあり、それもまた世の真実である。
権限の分散、分離された権能を前提とした相互牽制。それが十分機能しておれば、伏魔殿化する事態は回避されるはずである。
しかし、政治が政局偏重で推移し、責任内閣制が本来の機能を果たさず。lawmakerとしての役割を怠って役人に丸投げする。
司法がまた、名ばかりの最高裁判所違憲立法審査も同じ定番メニュウだけを何回も出すばかり。法務省(法における行政セクション)からの出向先と化してしまったら。
行政のオーヴァー・プレゼンス=伏魔殿の固定化は必定。
だから、憲法は起りやすい事態に備えて、保つべき姿を掲げ、国民に何をなすべきかを示しているのである。大典を理想のバイブルと崇めて、神棚の奥深くにしまい込み、埃をかぶせるだけなら。それは貧しいガバナンスである。
伏魔殿を更に一層豪壮かつ巨大化させる。黙認は追認行為つまり協力の一端である。
閑話休題
  炊くほどを  風がもて来る  落葉かな
たしか良寛の作句である。
  焚き火だ たきびだ 落葉焚き  
童謡にある、道路端でサツマイモを焼く、とうに死んだ。
戸外の裸火も、屋外設置ボイラーも、とうに禁止された。
「火」を禁ずることは、禁酒法以来の愚挙愚行である。行政組織のオーヴァー・プレゼンス現象=伏魔殿の末期症状を示す公明正大な証拠である。
低温燃焼下のダイオキシン汚染を嫌がっての措置だとしても、制禁するべきは「化学物質の生産・流通・使用」であって、「火」のほうではない。
モノゴトの順を誤った法制定は、災害復興をも妨げる。
最も合理的かつ迅速な復旧策は、不要な物を焼却する事である。徒らに移動させてはならない。
但し、放射能汚染物質は焼却しても大気に拡散するのみである。「焼く」ことは、人類が動物と分かれ始めた基本革命であり、生物圏域の固有事象である。対して、放射能の人工的発生は、先稿で述べたとおり宇宙圏域の科学的改変反応であるので「焼く」ことによる解決はない。
東日本の災害復興、その要諦は瓦礫処理の早さにある。
その解決策とは即ち伏魔殿の消滅=中央省庁デマケーションからの切離しにかかっている。
今日はこれまでとします