バリ&ギリ南洋見聞記No.20

バリ農村風景点描は、多くのことを考えさせる。
偏りの無い眼をもって果たしてものを見ているか?
これまで書いて来た事を2、3チェックしてみる。
1 『覆水 盆に還らず』を持出すなど、当り前の自然摂理・物理現象を述べることにどんな意味があるのか?
2 バリを中進社会と決めつける意味は、何なのか?
まず『覆水 盆に還らず』の方だが、まず第16稿に次いで18稿で再言及している。
ウィキペディアによると「一度起きた事は決して元に戻すことは出来ない」意味とある。灌漑用水の視察報告なので「水は重力に従う。当り前の自然事象だ」だが、実はウィキの意味も含んでいる。
後段で詳述するが、農業機械をバリで見てない(第19稿で報告した)ことに関連するので覚えておいてもらいたい。
次に中進云々。
第8稿でバリを中進社会としたが、先進でも後進でもないからそう言ったまで、何をもって先・後とするか?と突っ込まれても応えられそうにない。
しかし今更取消す訳にもいかないので、何とか紙数を費やしてみたい。
農業機械が無く原子力発電所が無い。それが中進社会の一特徴であると思いたい。
これ等が必要か不要かは、時代と地域と人によって結論が異なる。果して、原発不要と1年前に、筆者を含めてどれだけの人が言いきれたか?
それは農業機械も同じ。バリに無いからバリ農業は遅れてると言えないと確信する。
ただ、既に農業機械に依存する、生じた余剰時間をパチンコで潰す、日本の農民に農業機械を放り出させよう。それは絶対に無理である。
これこそが覆水盆に還らずとする由縁である。
バリの川は、田んぼの縁の下を流れている。日本農業だったら、川の水をポンプを使って汲上げようと思い、おそらくそうするだろう。自然の摂理に反して低い位置の水を高い位置に汲上げることを当然と考える科学水準を誰も危ういと言わないだろう。
だが、筆者は異なる意見である。自然の摂理に反してまでやるべきでないと考える。
出来るから、容易に実現するから、やってよいとは思わない立場である。
これまで、猛烈な速度で大型化に邁進する事に専念して来た自称先進国は、科学信奉・万能神話から離脱するべきである。そう原発事故は示唆している。
人が出来る事を機械に置換えようと考えずにきた中進社会、この歪みの無い科学思想を再評価したい。彼等の科学水準は低位ではなく、先住民が持つ等身大の体験科学を安易に放擲せずしっかり把持してきた。
極めて誠実な科学水準なのだ。
今日はこれまでとします