泉流No.52 日本のメディア

* ちほう紙の  受売り丸採り  愚の極み
〔駄足〕 隣り百姓、金太郎アメ。日本文化の一つの特徴を適格に切出す気の利いた言葉である。
九州の某公益事業を廻る「やらせ」e-メール問題も一見今日的話題のようだが、内部告発や土建談合などと全く同事・同根であって、残念ながらこれからも浜の真砂のように多発する事態は避けられないであろう。
九州だけではない。北陸地方の某有名半島もまた同事・同根だ。
談合業者に対し指名停止などペナルティー行政措置が採られるが、それを緩和する旨の陳情が地域社会から出されたと聞く。
公金横領を推奨して、何とも思わない不見識だ。
首都圏でも先年、同様の構図=個人タクシー情実ビール付公金横領事件があった。
行財政がらみの公金横領に対してルーズな役人天国ぶり、氷山の一画と考えるべきであろう。
道徳に優先する「まずもって内なる平和を」重んずる主導原理の定着。愚民政策の徹底ぶりに唖然とする。
〔駄足の蛇足〕
さて、この15日から1週間は、新聞週間である。
木曜朝のTBSラジオに、今日は何の日?なる興味深いコーナーがあり、その受売りである。
2008年世界新聞協会の調べによると、日刊紙1紙あたり発行部数の上位ランキング20位のうち8紙(うち2つがスポーツ紙)を日本の新聞が占めると言う。
種類が少なく部数が多い。日本の新聞は軒並み経営効率が高く、新聞人は高給を食むらしい。
まあ、そんな事はどうでも良い。
問題は、その効率が競争原理を働かないようにする法制度に由来すると聞いた事だ。
1951年施行の日刊新聞法が新規参入を阻み、再販制度が販売価格の高価維持を支えた結果。世界でも稀に見る日本独自の特異な新聞事情を構築しているようだ。
その歪んだ、特異な社会事象とはこうだ。
この国のリーダーは、議論に発展する事態を畏れて、旗幟鮮明にすることを避けると言う。
その役割を当人に代って専ら果す、それがチホウ紙である。その結果地方紙の記事は、地方自治体が発信する情報の丸受ばかりとなる。
新聞の読者は、その記事を読んで丸採りする。丸採りとは、無批判に咀嚼のみを行う姿勢を言う。
それで社会効率は確かによくなり、議論が無くなるか?さもなくば、議論が低レベルの重箱の隅アサリに堕することになる。
中央集権体制下における地方政治は、発行部数最大の地方新聞=ダントツ・クオリティー紙が固定されやすい体質だ。
地域主権の近未来は、情報の多様性を踏まえ活発に議論を交わし、より良いシステムが形成・改善され、公金横領を回避すべきである。
だが、現実社会は、その理想に遠い。
現行チホウ紙に掲載される未来の選択肢は、極端に少ない、かくして内なる平和は確かに保たれる。そしてその代償が、愚劣の極みに限りなく近い低迷した地域社会に堕していることだ。