泉流No.40 夏蝉

* ソイしょいと  蝉なく頃に  夏終る
〔駄足〕セミやトリは空を飛べるので、来世からの使者とする見方があるらしい。おおかたの鳥は天界から飛来する存在だからさておく。
蝉は土の下から這い上がって来ると知られている。それで行く末を案ずる向きは、嫌悪すると聞く。
昨日、生泉流の稿で。松任本誓寺の法宝物虫干法会に行った事を書いた。
初日の法話は,同寺の現住職が担当した。演題は,本誓寺の幽霊であった。同寺に伝わる掛軸について語ったが夏に相応しい話題だ。同じテーマを招かれて本山に趣き、浄土真宗宗祖親鸞750年遠忌の場でも語ったと言う。それほど本誓寺の宝物群なり、虫干法会の事は有名であるらしい。
主な文化財には、選書判大の説明書きが備わる。持帰って後日ゆっくり読むことができる。それも行き届いた配慮だが、宝物の前に説明者が常駐。重要文化財・県宝・市指定文化財のコーナーにおられる元教員の方の博覧強記には驚かされた。
寺の由緒がまた、話題豊富だ。開山は白山信仰を創始した泰澄大師で、養老3(AD719)年。当初の寺は寺地が現在地から少し離れた北陸鉄道線路沿い、寺名が無量寺、法統も当初天台系であったが、故あって後に浄土真宗、名も本誓寺に改まったと言う。
その改宗の経緯が、寺伝によれば劇的だ。いささか長いが、触れてみよう。
時は承元元(AD1207)年、所は移転前の旧寺<現在白山市にあるニッコー工場付近にあったと言われる>で。当時の住職であった円政と親鸞とが出逢った奇縁をもって、改宗したと伝わっている。
では何故、この時この所に34歳頃の親鸞が居たかであるが、なんと彼は時の朝廷から、師である法然と共に念仏停止・還俗・流罪の処罰を受けて、配流地越後に護送される道すがらであった<浄土宗、浄土真宗では承元の法難と呼んでいる、なお浄土宗元祖法然の配流地は土佐讃岐辺>。
加賀平野を流れる倉部川の増水氾濫にかこつけて、数日親鸞はこの寺に逗留したそうだ。迎えた住寺僧円政と還俗者親鸞とは、互いに旧知の関係。比叡山吉水で法然主導の講座に連なった同坊学生であったようだ。この二人は,境遇においても通うようで、ともに藤原氏傍系公家の末流であったに違いない。
その頃松任なる地名もまだ無かったと思われるが、真宗にはその時親鸞が作ったと言う地名を折込んだ歌が伝わる。以上がかなり端折ったが、本誓寺改宗にまつわる伝承の粗筋である。
さて,句の意だが、ソイは素意と、しょいは初意と書く。信仰の世界ではそれぞれに重要な意味を持つ言葉なのであろう。春に唱う蛙も、秋に啼く虫も、夏に騒がしい蝉もまた生きとし生るものであり、ヒトと何ら変わらない。セミ啼く虫干の夏は昨日で終った。
〔駄足の蛇足〕
さて、松任は加賀平野のほぼ中央に所在する穀倉地帯。鎌倉時代の初期既に東大寺や公家の荘園があちこちにあり、白山を源流とする農業灌漑用水の管理統制網に直結し、要の位置にあった白山神天台系に属する中核寺院が神仏習合の当時、そうたやすく改宗出来たであろうか?大いに疑問だ。
異なる史料・伝承が伝わらないので、後世の者として上掲の粗筋を受入れざるをえないのだが、、、親鸞受難期における、真宗宗派確立前夜の珍事であり、今日隆盛を見ている真宗躍進の過程で、後日附会・脚色されたストーリィの匂いがある。
筆を措くにあたり、そのような伝承が成立した時期・背景を想像してみよう。
畿内に拠点を置く真宗教団の政治中枢本部は経済力を欠き。北陸在地教団の方は、京畿にやや近い穀倉地帯にあって経済力は盤石でも政治権能と情報力を欠いていた。互いの欠点を相補い結び付ける役割を果たしたのは琵琶湖・日本海連接の水陸一貫ルートを抑える輸送集団=堅田衆であった。
この三者鼎立が機能した時代は、加賀国一向一揆=百姓の持ちたる国の頃である。宗祖親鸞と本誓寺についての伝承確立は、その頃であろうと愚考する。