泉流No.37 古京辺

* みやこべは  ネギとゴボウが  よく仕切り
〔駄足〕3日ほど、南に出ていた。台風を出迎えるつもりはないのだが、帰路は追い立てられるように家路を急いだ。
台風の進路予測はよく当っていたと思うが、警報の出し方が県別なので、移動しながら地域固有の気候風土と行政区分割との間の食違いを身を以て感じた。
長過ぎる固定は制度疲労であり、歪んだ地域自主性を育てることに繋がる。困ったものである。
毎日サンディー生活者は世間並みに3連休に囚われて遠出する必然もないのだが、諸般の事情=ホテルの予約は早めだと安かろうと、早い時期に日程を決めてあった。そこへアトづけで台風が割り込んで来た。
更にもうひとつ迂闊な事、地下鉄四条駅を地上に上がったら祇園祭だったことだ。
凄い人混みで身動きが取れなかったので、半日そこに留まった。前準備も事前知識も皆無、あの高名な祭りがこれかと、大荷物を抱えたまま定点観測に励んだ。偶然に過ぎて行く、幸福なほうの半日であった。
この日夕食を取りながら眼だけTVを見た。奉納山の使者が神主の前に進み出て、手箱ごと奉書を奉るシーンの録画再映を長々と見た。何人かの少年が使者の役目を務めたが、差出す瞬間に風が吹いて奉書を舞い上げるシーンを期待?しつつ、祭りはやはり神事であったのだと当り前のことを思い出していた。この神事とは、災害回避であったり、農家であれば灌漑無事であったり、日常茶飯の諸事への願望のことである。
そして思った、去年から来年にかけて京都や奈良は、元気になりつつあるようだ。と・・・ 
別にそれは、大地震津波に襲われた東日本の苦境を尻目に、仕組んだわけではない。規定の事、50年か100年のスケールで行われる行事がたまたま重なっただけの事に過ぎない。西には、良きにつけ悪しきにつけ古い日本があって、時々にその存在を思い出させる仕組がある。
ワットは、格別宗教・信仰心が篤い者ではない。文化の一端として存在を容認する程度だ。
さて、去年から来年にかけてとは、浄土真宗宗祖親鸞の750年遠忌を指す。
龍谷ミュージアムがこの春開館した。
無学の小生には、親鸞とこのミュージアムとの関係がまだよく判らないが、遠忌事業の一環か?親鸞と釈迦を並列的に採上げている。博物館開館の準備にはおそらく数年かけて来たであろうが、記念展は数回に分けて展示替となる。それで、春から何度か京都に足を運ぶ次第となった。
句の意味は禰宜とご坊が仕切る古京の行事を観察しての印象だが、それは必ずしも祭事・仏事に限らない。まして来世のことでもない。
ほぼ140年前政治的強権をもって行われた神仏分離を含みとしてもいる。この140年、あらゆることに制度疲労を痛感する。天気予報・台風進路予報もまた然りである。官業トラの出しゃばりとその縛りを受ける事に疑いを持たない資格保持者団体のキツネ撫で声・擦り寄り姿勢こそが制度疲労そのものだ。
この度の大震災津波への事後対処を見ると、東部半没どころか列島全没と言わざるをえないほどの制度疲労状態だ。
140年の長過ぎた制度疲労からの脱却気運は、21世紀への胎動として神仏界から起るかもしれない。
自給率向上を目指す農業界と深く重なりあう神社と、多くの人の現世における精神救済を本来の役割とする仏教寺院との双方から、、、、今更もって分離に囚われず、過去を見直して良い頃かもしれない。
さてさて、140年前の過ちを糫すべき動きが、この列島にはいつ来るであろうか?
最後にみやこべだが、漢字だと古京辺となる。
京都と奈良のことだ。
奈良は去年が遷都1300年であった。
今年の奈良博は、「特別展 天竺へ」をやっている。
この国の仏教を総括して考える普通の人は、天竺・唐・扶桑の三国をもって仏教世界と考える。それもまた制度疲労である。ただ、こっちの制度疲労はこの100年であるが、、、、
『から』は、唐と書くそれと、韓と書くそれと、つまり2つある。数に拘るならば三国でなく4国になる。それが、統理的に正解である。
公伝であれ非公伝であれ、仏教の伝達経路は廻廊・韓半島経由であった。それが歴史上の事実である。
この地理感覚もまた100年前の過ちなのだから、21世紀への胎動に併せて是正さるべきである。