泉流No.33 里の海山

* 山に川  一胞帯海  とこしえに
〔駄足〕先般取材目的でぶらり訪ねた丹後半島が、世界自然公園ジオパーク指定地内にあって地球惑星科学特異景観自然公園であることを前稿で紹介した。
今日はその続編である。
間人<地名。タイザと読む>の海浜にたたずみ、前夜の見事な夕景を思い出しつつ、眼の前の日本海は東アジアの内海であると実感した。
継体〜欽明王朝の成立を、列島の空間軸のみで論ずるべきではない。文献で後世に残らなかった民族の記憶は、地域伝承と周辺地域の文化資産とを重ね併せ極力復元すべきであると実感した。
タイザの地に伝わる縁りの人。欽明天皇の皇女にして後継者用明天皇の皇后となった穴穂部間人皇女については、鬼前皇后とも呼ばれた(別資料による)。
鬼と言えば、真っ先に浮ぶ人物がいる。突然に来日し、軍事的脅威を背景に開国を要求した、黒船渡来のペリー提督である。当時街頭で売られた瓦版の似顔絵と当人の写真画像とを見比べて、同一人物と同定することは難しい。とまあ事ほど左様に、言葉が通わない異文化間の誤解は大きいと言わざるを得ない。
因みに、丹後半島山椒大夫の屋敷跡あり、周辺は大江山がある。いかにもボーダーゾーンに相応しく鬼か邪鬼まがいの強欲商人が跳梁するのだ。
さて、継体〜欽明朝の人物像に神功皇后伝承を追加すれば、日本海の内海属性は一層明快だ。アフリカ〜ヨーロッパ間に位置する地中海と変わらないロマン溢れる海域となる。
北海道から九州西海諸島までの日本海沿岸が韓半島の対岸に当るから、大陸大国の重圧を避けて海上に逃れた在韓半島王朝中核要人一行の上陸地が旧丹波国の海岸とは限らない。丹波王朝仮説が存在すると聞くが、肯・否定ともに慎重でありたい。
ここで句の意。日本海を望める全ての里山・里川が、水と人を介して里海に繋がる。その当り前の事が往々にして忘れる、その現実を思い自らを戒めたい。
一胞帯海<いちえたいかい>は、世上にある言葉 一衣帯水と同じ意味だが、胞衣<えな>から前の方の一語を抜いただけである。
人にはボーダーの壁があるが、水は国境に拘ることなく自由に行きつ戻りつする。
それもまた忘れがちである。
〔駄足の蛇足〕
先行する「泉流」の諸稿において、筆者は間人の地は韓半島撤退王朝が上陸し中期滞在した地・外交施設が置かれた地のいずれかであろうと述べた。
そのことに関連して、少し書く。
今月、北京で国連食糧農業機構FAOが国際フォーラムを開いた。メディア報道によれば、そこで能登半島佐渡島が世界重要農業遺産GIAHSに認証され登録されることとなったと言う。間人の地を含むジオパークとは若干のジャンルの違いはあるが、基本精神はUNESCOもFAOも国連の下部機構としてあい通う。
重要農業遺産システムの意味するところは筆者なりの理解だが、千枚棚田や「あえのこと」・朱鷺と共存する営農思想が、地域固有の自然に適合し生物多様性にも配慮した持続可能な農業生産システムであるとして、高く評価された結果であろう。
前海の海潮は、南から北に向って進むと言う。
1500年もの昔、韓半島を捨てて海に乗出した亡命王朝の一行が、一艘の漏れなく間人の浜に辿り着くはずはない。風と潮に流され着岸できなかった船団の一部は、その後能登または佐渡で上陸したことであろう。
時代は下って、旧能登國には能登客館なる外交施設が置かれた。国交の相手は渤海国(698〜926。中国東北部から韓半島北部)であった。記録によれば、奈良〜平安にかけて34回も修好来日している。 
もちろん、間人と能登とでは時も所も相手も異なる。
だが、何故に渤海使節は、舵繁く何度もやって来たのだろうか?貿易の利追求は当然だが、東アジア政治変動の歴史を俯瞰する時、まず互いに弱小国としての共通感情があったであろう。
こうも考えられる。あの時能登にも佐渡にも上がれずに流された残党一行は、再び大陸の一画それも暴力発動大国から最遠の地にひっそり隠れ住んだ。先祖が昔果せなかった移住希望ノスタルジアを忘れず民族の記憶に従い、列島交流を求めたかもしれない。
更に想像逞しくすると、祖先を共通とする王族の末裔が遠い地に棲む縁戚者を訪ねたかもしれない。
なお、先行説がある。渤海使が還る際新造船を給される事が多かった、それが癖になったとするものだ。