泉流No.31 間人<たいざ>

* 間人を  タイザと詠ます  難読地
〔駄足〕丹後半島で温泉に浸かりながら雄大な夕景を見たことは既に述べた。古い国名の丹波は,この地で見る夕陽が映す雲と海波の鮮やかな茜色〜オレンジに由来するに違いないとする主張もまた既に述べた。
丹後半島は、東アジアの内海にあたる日本海に面しており、その内懐は若狭湾宮津湾・阿蘇海である。
間人をタイザと詠める人は、まず居ないであろう。難読地名の最たるものである。
この地名の由来は地域伝承だが、最も手軽な要約は、ウィキペディア穴穂部間人皇女」の中にある。
筆者が現地取材の折に入手した文面とほぼ同じ内容だが、ここには現地紹介文の筆者による概略を掲げる。
”皇女は、蘇我と物部の争乱を避けて一時この地に滞在し、都に還るに際して自らの名を贈って立去った。土地の里人は皇后の身分にある高貴な人の名を呼び捨てにするは畏れ多いとしてタイザと言うことにした”
さて、退座なる文字があるにはあるが、眉唾でも理解に苦しむ感がある。なお、間人皇女が彼の地に行啓した記事を記・紀から見出す事は出来ない。
次に間人皇女<ハシウドノヒメミコorはしひとのひめみこ>にかかる文献記録だが、2つある。
1、第36代孝徳天皇(596生〜654没)の皇后にして
    第34代舒明天皇の皇女=生年?〜665没
2、第31代用明天皇(生年?〜587没)の皇后にし
    て第29代欽明天皇の皇女=生年?〜621没
ともに皇后だが生年・享年は不詳である。現地では、2の方つまり穴穂部間人皇女を該当皇后とする。
序でに、伝承で滞在理由となった蘇我と物部の争乱だが、仏教公伝に従えば欽明天皇(509生〜571没)在位(539即位〜571崩御)の552年〔有力な別の文献では538年とする)から587年(この年蘇我馬子聖徳太子物部守屋を討果たした)の間と考えられる。よって、該当する争乱の年を確定することは出来なくても、1の方は現代長寿時代の平均寿命に照らしても時期的に重ねる事はほぼ難しい。他方2の皇女は、欽明天皇の皇女であって争乱の一方の旗頭であった聖徳太子の生母である事実からも同時代人として重ねることができる。
因みに,人名が間人で始まる者が、古代人名辞典第5巻1323頁以下に約20名強存在し、古代京域以外では山城から出雲の間に住む者が多い。
〔駄足の蛇足〕
以上、長々と掲げたが、そろそろ紙数も尽きたので、筆者の泡沫論を述べようと思う。
欽明天皇は、継体天皇の嫡子に当る人物であって、この親子の前後が空想歴史と実体歴史との境界であると言われ始めてもう60年以上になろうとしている。
その以前との系統もしくは血統での断絶があり、加えて動乱期であったことが明らかになりつつある。継体王と欽明王との間の2代王の実否について学界の定説は無く、当代・皇太子・複数の皇子が同時に薨去するなどの異常な文献記述が残っている。
ただ、メディア報道によれば、2010年6月奈良考古研が脇本遺跡発掘中に大型建造物群を彫り出し、しきしま宮跡と比定したことから欽明王の実在は著しく補強されたものと考えられる。
更に、この時代の争乱を列島の空間域のみで論じるべきではなく、東アジアの動揺と絡めて論ぜよと筆者は言いたい。
仮に一国史観をもって単独確論することがあるとしたら、それは近現代の色眼鏡でもって過去を覗き見するような非科学的幻想物語と大差無いと言えよう。
事実欽明天皇は、金官伽耶第10代仇衡王(在位521〜532。生没年不詳)が韓半島を立退き、倭国に移住した後の称号であるとする説もあるのだ。
タイザなる音価は、より大きな存在の王朝中核が列島の外から大移動して来た際に上陸した地点を思わせる響きがある。
代案もある。外交重要施設である一大公館が、この頃置かれていたことを指す残存地名ではないか?
間人なる文字が示す意味もまた、この2例に対応させて述べてみたい。
○王朝中核の新来大移動に対応するケース
新来の大王朝と旧来の列島先住王朝とは、おそらく血縁関係にあったものと思われるが、それでも風俗・言語など長い離別と風土に応じた価値観のズレはあったであろう。それをスムーズに穏やかに処理するために中間に位置して触媒のような役割を果たすのは、いつの時代もそれは女性の役割である。「あいだーのーひと」=橋を架ける=ハシウドと長く呼ばれ、広く慕われる皇女の呼び名となったのであろうか、、、、
そして、上陸地は暫しの間、韓半島の元王=既に退座した王の駐輦地タイザと呼ばれたかもしれない。
○もう1つの一大公館設置に対応するケース
外交場面で間人と言えば、通訳が最もふさわしい職能である。丹後半島の外海面での最も相応しい役割は、まず見張りで、舟を見たら狼煙を揚げて都に知らせる。加えて相手の出方と応接の仕方が予め決っている場合は速やかに若狭湾内に誘導する仕事を果す事となる。この場合通訳が誘導舟に乗込む方がベターである。タイザ=大座?に通訳兼任の大官が対峙したかもしれない、、
○最後に女性の出番
通訳なる職能もまたおおいに女性向きであり、いずれのケースでも皇女に傾きたいものがある。
韓半島からの王朝中核の撤退は世紀の大事業である。
列島王家に嫁ぎ皇后である娘が,百官を従えて父を含む実家一統の大移動を出迎える大任を担う。それは大いにありえたことであろう。
明王在任中に、韓半島にあった任那は消えた。
間人なる地名は、旧丹波国で分国後の丹後半島である丹波丹波郷のうちにあったものと思っている。
今日はこれまでとします