泉流No.30 丹波

* 丹波とは  夕陽を映す  雲と海
〔駄足〕この丹波とは,旧国名丹波を指す。音声表記すれば「たんばorたんぱ」となるが、ここから話題が込入るのでキィワードを使うこととする。
旧国名は明治政変以前まで行われた。その根拠は律令制下での行政区分である。
○所謂古風土記に当る文献記録は現存しない。但し和銅6(AD.713)年に丹波から5郡を割いて置かれた丹後には逸文(部分的に復元可能な古記録のこと)がある。
丹波国は上述分国記事から7世紀には成立していたと推測される。つまり成立年とその前史が不明だ。
丹波なる地名の初見は、開化天皇のファミリーに名が出る竹野ヒメである。@古事記は后=竹野比売とし、日本書紀は妃=竹野媛とする。<注>ウィキペディアによれば、開化天皇は第7代、在世BC208〜98とあり、110年もの長命であったなど所謂欠史八代の一人=実在が疑われる
以上が丹波と丹後に絡むキィワードであるが、筆者のコンニャク問答をいよいよ始めることとする。
1、旧国名の由来は、各地域の事例に拠れば特異な地形や名所旧跡、特産物などに由来する。たんばorたんぱから連想される有力な根拠事象は見当たらない。
このことを踏まえた句の意は、夕暮れの空に雲の波と海上に風が起す波頭とが由来なのだと言っている。
2、丹とは,広辞苑によればアカorオレンジである。例示として丹頂鶴、黄丹は日本画の顔料など
3、丹前なる旧国名は存在しなかった。
一 越<こし>・吉備<きび>・豊<とよ>などの各地域は,分国に際して前・(中)・後など京からの近・遠をもって後置修飾語付きの国名とした。
二 美作は備前より加賀は越前よりそれぞれ分国されたが、上述の3−一の例に従いたくても空き字が無く上述の1の例に従い新たに命名されたと考えられる。
三 丹前なる名で流行した江戸風俗がある。<注>ウィキペディアによれば、どてらのことで、旗本奴や狭客が派手な縞柄の長着物をだらしなく着流したこと、その当時高名な遊女の出た風呂屋が堀丹後守の下屋敷の前にあって「丹前風呂」と呼ばれたとか、、、、
4、丹後と丹波の関係は、京から遠・近の位置関係にあるから一見合理的だが、丹波から割かれて丹後に属す事となった5郡の中に『丹波』があるから妙なことになっている。つまり和銅6(AD.713)年以降下記の地名が現出した。丹後国丹波丹波
因みに、竹野ヒメに関連したであろう竹野郡竹野川は丹後に属した。
序でに、この古代京畿と日本海を経由して大陸韓半島とを結ぶ廻廊上に位置した丹後半島は、美女に縁の深い地域のようである。浦島伝説の乙姫、小野子町、静御前細川ガラシャと所在の実・虚は別にして5人も並ぶ豪華さである。
5、予定紙数は大幅に超過したので打切りとしたいが、最後も結構厄介だ。上述ウィキペディアに『丹い波の国』とあって、脚注に典拠として2つの行政事業報告レポートのタイトルを掲げている。保津川開削400周年記念と亀岡市観光協会ホームページだが、かつて亀岡の地に広大な湖があり、その丹い波が国名の由来となったのだそうだ。しかも地層からも古記録からも湖の実在が検証可能なのだそうである。
ここでは筆者は何らのコメントをしないで、もっと遠くに想いが飛ぶのである。
〔駄足の蛇足〕
保津川丹後半島も間人皇后も聖徳太子との繋がりが深い。ヤマト王権の人的脈絡を特定の血族や家系に無理矢理繋げる解釈や韓半島を無視或は軽視して古代中国との直接交渉を強調する歴史観は、近現代イデオロギーによる歪曲なのだが、日本海も瀬戸内海に似てある種の内海でもあると言えるし,東アジアの視野で展望した場合もそう見る方が合理的でもある。
さて、聖徳太子だが、この実在が疑わしい人物の前後で古代史は劇的な転換を迎える。彼以前のヤマト連合王権は韓半島本国の出先行政区か本家に対する分家のような匂いがきついのだが、彼のデビュー以後はその匂いが急激に薄まり、白村江の敗戦で全く臭いが消えるのだ。
そのことを列島内の空間域で論じても説得力は弱く、韓半島三国との関係とその提携者として背景にあった大国中国の影響力も加味する必要がある。
ここで話題は更に転ずるが、ヤマト連合王権の外交主軸は、彼以前は瀬戸内海経由で行く韓半島黄海沿岸地域にあって、彼以後は日本海これも内海扱い経由で行く韓半島日本海沿岸地域に採って変わられるのだ。
なお、余談だが瀬戸内海を活動テリトリーとする海族は、落日後も長いこと残照を保ち続け、平氏清盛親子一統の安徳入水事件で最後命脈を絶った。
秦氏に連なる京都遷都派王権を支えたのは、鳰の海から日本海を抑える近江系海族だが、彼等は天台宗から白山信仰との繋がりを経て日本海沿岸を北上した浄土真宗系の一大勢力で、聖徳太子信仰に深く重なる集団だ。
今日はこれまでとします