泉流No.27 丹後半島

* 夕日浜  とよ旗雲を  仰ぎけり
〔駄足〕梅雨は時に波のようなうねりがある。梅雨の合間の2、3日を縫って丹後半島に遊んだ。いつもながら、ぶっつけ飛び込みだ。当然に何も成果の無いこともある、空振りもまたよいものである。
丹後半島畿内でも山陰は眼と鼻の近さだからか、日本海は概ね北にある。眼の前の海流の方向はどうか知らないが、対岸は韓半島であることを直感した。最後の氷河期が終り日本列島が最小の面積にしぼんだ頃は縄文時代と重なるが、その後再度海が後退して、列島が大きくなり始めた頃、広がるウオーターフロントで栽培農業に従事した多くの人々は対岸の半島から移住してきた人たちであったような気がする。当時も今も大陸所属の廻廊半島の前の海を流れる海流は、その後日本海を北上して山陰海岸から青森県沖までを蛇行しつつ列島海岸に時に接近しそして時に離れながら多くの移住民を運び、季節に応じて行き来も出来たことであろう。ただ陸に棲む民が海に乗出すことは並々ならぬ決意のいる大行事であったに違いない。彼等の背中を押して海を超えさせたパワーは何であったのだろうか?当時大陸中国は、国が統一に向い実現しつつあった。言わばあの地域における絶頂期にあたり、周辺領域への武力行使もまた活発な時期であった。武力行使される対象地域の一つが韓半島であった。韓は音読み<カン>で漢に通じ、訓読み<カラ>で唐に通ずる。列島先住の民が抱く海の向こうのイメージはこの程度の字句混同を伴っていたであろう。
この時期大量の避難民ボート・ピープルが出発した地が韓半島で、上陸した避難先の地の一つが丹後半島であった。
大浜の海岸とは、古代の呼び名で今は間人<=発音はタイザ>の後浜がそれに当ると言うが、その海浜にたたずむ彫像は、間人皇后<=ハシウド>とその実子厩戸皇子<=ウマヤドノミコ>であると言う。彼等のまなざしの先は、先祖初源の地である対岸に向けられているように感じられた。
近くの夕日が浦の温湯につかりながら、静かな大海に沈み入る夕陽が茜色に染める豊旗雲を仰ぎながら、万葉の瀬戸内のみが海陽の舞台では無いことを思った。