泉流No.25 新潟平野

* まあおぞい  ゴウルド除草  ニイガタ米
〔駄足〕風薫る五月とは、ひと昔前の言葉になりつつあるかもしれない。気温の高低差が日替わりの様相であり、黄砂を含むようなとしか言いようの無い漠然ながら妙な匂いが伴うような気がする。
雑草除去の方法には、オリンピックじゃないが金と銀の二つがある。
先日の取材旅行で新潟平野で目撃したものは、緑の田んぼの廻りを囲む畦道に残る、枯れて死んだ雑草のゴウルド色の残骸であった。
地球にも生命体にも優しくない手段で枯れさせられた残骸であったから、ここでもそうなんだと落胆した。
除草剤なる呼び名もいかがわしいが、化学薬品による雑草の除去は、この国の農業現場の追いつめられた、言わば末期症状にある農業の状態や地域社会の行き詰り症状を示す象徴的可視的証拠でもある。
農家の多くは小規模か零細規模の兼業農家であり、農業外収入をもって農業収入の赤字を補填している。
そうやってどうにか農業を継続していることは、広く知られている。つまり、レジャーに近い農業か片手間仕事としての農業であるから、とても雑草除去にまで気を配る程のゆとりがないのであろう。
たとえ、有名なブランド米であっても、トリや蛙の鳴き声がしない土地で作られた米を口に入れたいとは思わない。
因みに、シルバー除草とは、一言。
あの道路端でビーバーを使って雑草を刈る事を言う。
あの一団の人々は概ねシルバー人材センターに所属する技術者集団であるが、今のところ最も安全な除草策の一つと言えよう。
〔駄足の蛇足〕
筆者は農家でもない外野の一人だが、農業行き詰りの一端を直視し、頭に浮んだままを以下に述べる。
まず、化学的手段による雑草除去は、ダイオキシン汚染の災禍とタイトに繋がる事。
次に、水の汚染である。
水田の畦道は、イネのすぐ隣であり、その反対側は用水路である。散布した除草剤エキスは灌漑水を経由してイネに移り、収穫によって米として直接消費者の口に入るのではないか?
同じ除草剤エキスは当然に用水を伝って下流の河川なり末端の海水に達する。河口付近に人口集住の大都市があって、河川水を取入れて都市上水源に充てている例がまた少なからずある。
更に河口の前海は、水産物を育てる「○○前鮓」ネタの生息域である。
いずれも獏然だが、不安なしとしない。
3つ目は、ササとかニシキなど、所謂米のブランド化の問題である。
そもそも、自然界の植物生成システムに寄生する方法で人類は食糧を得ているのだが、ブランド作戦やブランド受容は、この天然由来の仕組に対する冒涜でないだろうか?
農漁業は、工業製品や宝飾品類とは根本的に異なる産業である。それを無視し忘却してブランド商品類似のマーケティング手法を採るべきではない。
仮に百歩譲ってブランド米を認めるとしても、それは産地名や生産農家名の表示を行うべきなのであって、品種名を冠するべきではない。
出荷時に米の品種を1つに絞り込む事が、果たしてどれんな効能があるであろうか?生産から消費まで全層に及んで真剣に検討してみる必要がある。
1つの作付銘柄に絞り込むために費やす膨大なコストと農作業の無駄に想いを致すべきである。
4つ目は、食糧生産全体についての人類規模の課題であるから、一層漠然としている。
それは、穀物生産が一年草種に偏り過ぎている事への懸念である。
この国に関して言えば、水稲栽培一辺倒を続ける危険である。
この度の大地震・大津波は、千年に一度の頻度で起る希有な災害だそうだが、この国のコメ作りは年々隘路の方向に向かう事を進化と考えてきたフシがある。
生物多様性の原則に則れば、ササとかニシキとかに生産品種が特化してゆくことは、あえて危機に接近する愚行である事は明白である。
希望は逆にある、作付け品種を増やし多様化させることで、近い将来起るであろう気候変動に備える必要があるのだ。
水稲栽培一辺倒もまた拙い、陸稲生産への回帰をもまた現実策として考究すべきである。
このまま、これまでの「大きな物語」の延長で漫然とコメ作りを続ける事は、フクシマ・ゲンパツのように契機は天災であっても、背景に見え隠れしてより大きな割合を占める人災の匂いの存在。その疑いが払い切れないことと似たような悔悟を近未来の食糧危機でも同じ轍を味わう事になるに違いない。
遺跡発掘の三内丸山で、栗の栽培つまり農業的生産が行われていた可能性があると言う、現代よりも食糧源の多様性が確保されていたようだ。
栗なる食材は、穀物でも草本でもなく、まして一年草種でもないだろう。
そんな分類は、植物の専門家でないワットにとり極論すればどうでもよいのだ。
ただ、数年に亘って生き続ける多年草や木本は、次なる重点種として期待を賭けたいのだ。素人目でもこれ等は一年草と異なり、数年または数十年間継続して地表面を覆い続ける。その安定性が、環境の悪化を回避して地球を救うだけでなく、生きとし生きる物の生命を繋ぐ食糧源の安定性に直結しそうなのだ。
一年性穀物生産は、乾燥期や洪水時に表土を失う危険性が大き過ぎるように思える。