泉流No.24 根子岳

* 尾根筋に  白蛇を見せる  根子の山
〔駄足〕この数日気分転換を兼ねて取材の旅に出た。
山と川を再発見することで、生きていることを実感する。
ある、見る。それだけで良いのであって、余計なことを述べないのが一番いい。幸せを感じる事、それが則ち生きていることの重要な要素だ。ワットにとっては、それで十分なのだ。
句の中の根子の山とは根子岳の事だが、五音にするための言い換えである。
多く北の方から南に下がって行くコースを採るので、高速道路を走りながら、この山を遠望する事が習いになってしまい、好きである。
雲がちで見えないことがあると、がっくりする。
かつて、2年ちょっとばかし、この山の登山口付近に住んでいた。そのことによる愛着もあるが、その住いから山容を見る事は全く出来なかったことをあえて断わっておきたい気がする。
姿かたちが実に良い山である。
長野市を含む盆地から四方に山がたくさん見えるが、根子岳は格別目立つ存在ではない。むしろ逆であって、あまりにも平凡な円いカタチであるからこそ、すぐに見つけやすいように思う。
なだらかな山容は落着きを感じさせ、古里の山にふさわしい穏やかさが実に良い。
菅平高原から仰ぐ姿もまた、素晴らしい。四阿山とほぼ同じ高さに二つ並んで具合が良い。オッパイが二つあるから、豊かにゆとりを感じさせるのだ。
あれは一つでも、三っつでも、駄目なのであって、双峰は何ものにも代え難い有難さがある。
変な言い方だが、山や川がよく見える日は、晴天である。だから、気持が良いのかもしれない。
さて、句の中身だが、麓の街・真田から鳥居峠に向う谷筋の道を登って行くと、狭い谷の先奥に一瞬のタイミングで根子岳四阿山が見えるポイントがある。
その時、春先のある短い期間、雪の消え残り、白くて長い蛇ののたうちが見える。
菅平高原に向って走りつつ、古里が近づく感じを味わった。
〔駄足の蛇足〕今年の初夏は、不順のようだ。
まず寒い、風が強い、そして冷たい。晴れても爽快度が乏しい、埃っぽい、黄砂の匂いがするようで、落着かない。雨がまた多い、そんな日は全く暖かくない。
原発が心に引っかかる。不気味である。
原子力の平和利用などとタイトルばかりの錬金術流で、戦勝国軍産複合体が敗戦国に無理矢理押付けた、事実上の軍政の匂いがする。
ポツダム体制は、名目上の自主権民政でしかなく、無条件降伏がもたらした駐留軍政の付け回しは、65年も経ってから、敗戦国の復興を根底から覆し、隠されてきたものを曝け出してしまった。
石油・電力・原子力・沖縄、この他にまだ知られてない密約はないと祈りたい。
これ等はすべてがカタチを変えた事実上の戦時賠償である。
第一次世界大戦において戦勝連合国がドイツに課した賠償負担と同じものを、第二次の後の敗戦国ニッポンにUSAは、駐留費用の負担・宇宙開発への参加・軍用機の買上などと巧妙にタイトルを変え実態をカムフラージュして、高いパートナー負担金を押付けた。
原子力の平和利用もまた、第何十番目かの隠された戦争賠償金の取立であった。
21世紀10年目の3月11日は、原発を通してアジア太平洋戦争の顛末を曝け出し、その敗戦を招いた根底にある真の原因である明治政変の基本構想の失敗を、明らかに示してくれた。