泉流No.23 弥彦

* 湯はサクラ  ツバメ・イヤヒコ  紅のイモ
〔駄足〕この3月11日以来、ニュース・ネタが多過ぎるせいか、胸騒ぎするばかりである。
メディアに極力アクセスしない日常であり、揺れの元から遠い西に居る日頃なのに、胸騒ぎの原因がどこにあるかすら自分がよく判らない。
農作業の合間を縫って、この数日放浪の旅に出た。
取材旅行である。
平常と異なるカタチが眼に入り耳に飛込む状況に身を置き、スィッチ切替したいと思った。
頭に描く最高の解決策は、被災地に行ってヴォランティア活動を行う事だが、行くべき地が定まらない。
被災の地や被災の状況があまりに広大・深刻過ぎ、とうに我が老体の及ぼす限界を超えたように思える。
そこで、とりあえず東の方に向って走った。
そして、やはり体力の限界に行当り、畠の事が頭に浮かんだので還って来た。
句も頭に浮かんだままなので、出来がよくない。
取材旅行なる放浪とは、想定外の暮らしをさす。
前もって設計や計画をしない。
だが、夜は安らかに過ごしたいし空腹は辛い。
雨も嫌いだが、これはどうしようもない。
本来回避できない自然との遭遇を、理想の暮らしである定住にエスケープすることで緩和しない。それが放浪・漂泊の場に時々戻る意味であるかもしれない。
夕暮れまでの短い時間に、入浴と夕食と野営のことを決める。これが、行き当りバッタリの下での想定だから、最小レベルの想定だ。想定外の暮らしと言いつつこの程度の例外は事実ある。
この日は、たまたまあの良寛が最後の日々を過ごした付近に居た。結果として重大な3事を片付け、幸せな朝を迎えた。何事もなく朝が戻って来て、この句が湧いた。
この句の立入った説明は、風俗倫理に抵触しかねないので、ヒントだけを述べておく。
カタカナ文字は、程度の差はあるものの全て生殖に係わる言葉である。生物として人が生き、種族が残るために重要な意味を持つ言葉であるから、忌むべきでないが、倫理もまた敵に廻したくない=保身の想いもある。
イモとは男風呂の中で目撃した光景、複数であるものの、自身は光景の外にある事を断わっておく。
〔駄足の蛇足〕フクシマ第一は、メルトダウンであったと、帰宅後に聞いた。
弥彦以東に踏込まずに立返ったのは、漠然とした不安があったからかもしれない。
以前に、はやばや書いた=チェルノブイリ以下・スリーマイル以上と。
困った事に、あって欲しくない懸念が的中した。
原発=原爆由来の本来備わる生命破壊の危険性もさることながら、電気を取出すニーズが無くなり発電スィッチをオフに切っても、その後3万年も冷やし続ける必要があるなど、システムと呼ぶべきでないものをシステムと無理にこじつけている。
まるで錬金術師のウソを思い出させる。
イデア倒れの無理スジ、欠陥だらけ究極の駄目装置が、人造地表太陽エネルギー製造施設=原発だ。
これまでウロ覚えの半減期を四捨五入して3万年と決めつけ、逢う人毎にまくしたてて来たが、外国製の映画があり、そのタイトルが100,000年とあるとか?ワットは3分の1も値切っていたことになる。
3万年も10万年も冷却の費用を誰が負担するのであろうか?電力ユーザーが負わせられる第4か5番目かの実態上の税金だ。思い遣り予算の性格があったこも最近明らかになりつつあるようだ。
戦後民主主義は、政治屋と官僚に全ての舵取りを任せきりにした結果、国民は知らずにトイレの備わらない超高級マンションに永住するハメになっていた。
そんな重大な事を、今頃気付かされるとは???
密約とか、隠れて国を売るような奴を優れたリーダーだと想い込んで、訳が分からないまま黙って付き従ってきた、己れの馬鹿さ加減にも腹が立つ。
ただ、ただ、パイを大きくする事が正しいのだと信じ込まされて・・・・・
これから(=3月11日以降)は、大きな物語を捨て去って、身の丈に合った小さな物語を語ろう。
過ぎた歴史、250年も続いた大きな物語の本が閉じられ、等身大の物語に人類が切り替った日として、この21世紀の10年目の日は長く記憶されることであろう。