泉流No.18 三春さくら

* おちこちと  問うが三春の  さくら狩り
〔駄足〕3.11の地震津波は、東北の太平洋沿岸を特に厳しく襲ったという。
東北の今頃となれば、数年前にサクラを求めて彷徨い歩いた三春<ミハル>の事を憶い出す。
三春の桜は、河岸・全山もしくは公園にて眺望一景とばかりに手軽な花見とはならない。
もちろん、国民性の発露である「花の下より鼻と舌」とばかりに、酒を一献傾けることもまた難しい。
人が植えた銘木名桜群ではない。
サクランボを食べた野鳥が意図せず運んだ桜(地域内に延べ約千本とか)だから、山のあちこちに広く散在する。
前にも書いたであろうが、三春なる地名の由来だが、転封されて遠い地から移住してきた殿様が、この地でウメ・モモ・サクラがともに咲いているのを見て、地名を定めたとのことである

至極尤もな話題なので、せめて殿様の名前くらい知りたいと想ったが、目ぼしい出処に行き当たらないまま、数年が過ぎてしまった。
因みに、三春に縁のある武家となると、これもたまたま三がらみで田村・加藤・秋田氏とか、、、
遠い地から遥々来たとなると最後の秋田の殿様が相応しいようだが、そう簡単に決めつけるのも如何なものかと想う。
次に考えた、三春となる以前の旧地名を捜そう。
なんと、これも見つからなかった。
結論を言えば、地名の由来はすべて伝承であって、最初から”ミハル”と呼ばれる土地だった。となる。
文献初見は今のところ、戦国時代この地に出城を築いた件であるらしく、ウメ・モモ・サクラの美しい話題の方は、観光立地が行政の正面業務と化した時代つまり近年の創作らしいのだ。
花が「そう咲く」と思わされ、捜索したら、結果は創作であったとまあ、これも三がらみ落ちとしておこう。
かなり脱線だが、場所がフクシマだけに「別れの一本杉」的行政ロマンチックはお手の物であろう?
阿武隈山系で遮られた浜通と中通とを繋ぐ山越え連絡路を見張るための好適な地形が、地名に発展したと考えるのが穏当であろう。
〔駄足の蛇足〕
地名改定の嫌疑をかけられた秋田の殿様の方には家名改定の事実がある。
三春の地で、明治政変を迎えて華族に列せられたが、旧家名は「安東<あんどう>」である。
こっちの方も文献に拘れば、平安時代に遡る名家?らしいが、伝承に従えば大和朝廷成立前史に由来する古さであるとか、、、、、
安倍貞任の後裔にあたり、本拠の地であった津軽・出羽のうちにある十三湊・土崎湊に本拠地を置く我国有数の規模の海族水軍集団であったらしい。
安東の家名も、古代中国の官名に由来するとか
ただ、律令期はまつろわぬ地域としての扱いを受けた辺境の地の先住者であり、外来の強大勢力であるヤマト族に追われて北に逃れた没落豪族であった。
その宿命からは、有史以後も逃れられなかったようだ。
安東から秋田に家名を改めたのは、戦国期の当主で一家統合を果たした秋田愛季である。
しかし彼の死後間もなく一家内紛が再燃、その咎により時の権勢=太閤秀吉から減封処分を受け5万石となった。
この石高は明治政変による大政奉還まで固定されたから、先祖の因果は子孫に報いる一例と言えよう。
この「まつろわぬものども」の悲劇?は、実はまだ続く、、、
家康の治世下にあって、国替えされたのだ。
海に面した遠祖の地=窪田は、あの三十六歌仙絵巻の旧蔵家で知られた佐竹氏の支配となり、
哀れにも海の名族?秋田家は、内陸の地=常陸宍戸に移された(1602年。現在の茨城県笠間市のうち)。
海が恋しかったのか、雄藩水戸家に囲まれて鬱陶しかったのか、そこでも殿様の不行跡は直らず、転勤希望を出したかどうかはさておき、1645年に三春に移されたのであった。
もちろん、三春に海はない。
海はないが、フクシマだから原子力発電所はそこそこ近いかもしれない。