泉流No.7 阿呆カゼ

* 風吹けば  桶屋が儲かる  アホ話
〔駄足〕 過ぎた週は、連日の降雪で家の周囲の雪掻きに忙しかった。
他方で、耳を驚かすメディア・シーズもあった。
国債の格付け引下げと各地のミュージアム切捨ての二つである。
国債を持てるほどの蓄えも無いので、格付がどうであれ、我身に応えるダメージは無い。
さすれば関心のありようは何か?
この二つの事象、それは一見無関係の事としてメディアも報ずるのだが、ワット俗流経済学の触覚は、その事象の通底経路を明らかにしてしまう。
その触覚が形成されたのは、子どもの頃、風吹けば桶屋が儲かると言う、悠長で一見内容の無いらしいアホな話を,何度も聞かされたからであろう。
さて、国債は国が借金のカタに渡す証文のことだが、証文そのものは,単なる紙切れに印刷しただけだから、どこまで行っても日本銀行券と同類のものである。
そこに書いてある印刷文字を実体と受けとめるのが平均的国民の日常であって、平穏平和のうちに推移している限り、印刷金額を信ずるものは救われる。
だから、国債保有者が笑って、格付引下無関係とばかりに「また明日ね」と通り過ぎる。
それは、個々人のまさしく自己責任だから、クニを信ずる者は救われる・・・・・
   以て一巻の終わりであって、
   何ら如何の事は無い,
   ナーンちゃって。
これ以下を読み進める人は、俗流「桶屋学」に興味があるか、その昔の戦後インフレを生き抜いて来た人か、くらいのもの。
笑う国債保有者を見てワットは決して笑ったりはしない。その理由は?と問われれば、それが経済学なのだとまず答える。
まだある愛国心の発露として国債を保ち続けるとか、株や投信は危ないとか、銀行預金の金利が低過ぎるとか、、、、
いずれにしろ、自己責任の範疇だ。
さて、ここから俗流「桶屋経済学」の展開だ。
一言で言えば、印刷した文字の示す金額と現実の通用力とのズレなり乖離なりを心配することが格付なのである。
よって、先の説明に説得力があるかどうかは、聞く人の立場に拠る。
神州ニッポンを崇めクニの全能を信ずる方々には、これから書く事は全く耳汚れの馬鹿話に過ぎない。
さて、キーワードは3つ。
まず、国債とは国の借金の一部であって全てでは無いこと
次に、国債だけでなく公債もまた、その窮迫実態において事情は同じであること
最後に、格付とは、その借財の償還の可能性を
指数/指標化したものであること
よって、引下げとは則ち紙切れ度に近づくこと、印刷証券そのものの本来の属性に回帰することだ。
桶屋経済学者の結論は、上述の要約と3つのキーワードでほぼ出てしまったが、では、国債を持たないワットは馬耳東風とばかりにノー・ダメージか、と言うと実はそうではない。
風は風邪を浮かべて運ぶように、印刷証券であるカネを使っている限りワットにも当人の意思と無関係に、格付引下げの効果は及ぶのである。
経済と言う生きものは、空気のように社会全体を通底状態に置く。地下水脈のように地表からは見えないが、ある割合を以て、全ての人が互いの意思と無関係に繋がっているのである。
そのとおり、国債格下げは早晩円安を招くのである。
円安とは、外貨との交換比率だから千円と印刷された日本銀行券が、明日から外国為替相場において千円を割込んだ通用力しか持たないことを意味する。
その背景もまた、常識経済学では周知の事だが
、行きがかりで述べておくと、印刷文字千円券は名目価値と呼ばれ、対する実質価値とは引替に受取るドル札が減ることである。
併せてついでに述べておくと、上述の例は外貨交換での例であるが、実は国内取引においてもおカネの価値は低下し物との交換能力は減価するのである。
このようなモノとの関係でおカネが減価することを別の言い方でインフレとも、物価高とも言う。同じことの別な切口でしか無い。
経済学の父であったアダム・スミスには、こと貨幣に絡んで名目やら実質やらの言及は無かったかもしれない。
その時代、紙切れでない現物手段による決済やコイン<=貨幣。不変属性の高い物性を備える貴金属で作られ、表示金額と地金そのものの時価とが乖離しにくいものを言う>による支払いが一般的であった。
経済活動において使われる貨幣が、モノそのもの価値と不即不離であれば、経済実体性は限りなくノーリスクに近いものだ。
おカネに絡むリスクを回避する生活をしたいのであれば、白山麓にでも移住して、印刷紙幣や印刷権利証券を一切持たずに、あらゆる生活物資を自給自作することである。
もちろん、スミスの時代も印刷紙切れ=銀行券もあったが、狭い地域の中の狭い人間関係性の中で一時性に近い短い時間に決済手段として、びくびくしつつ通用していたであろう。
しかもその銀行券は、兌換紙幣であるから、いつでも速やかにモノ貨幣であるコインなどと置換えることが出来た。
スミスの時代と現代の差は、経済取引と決済通貨の流通が、全球規模のグローバル・エコノミーになり、しかも兌換紙幣はどこにも見当たらないことだ。
その結果、名目・実質のコトバが生まれ、一層その乖離幅が広がリ、リスクは拡大し、日常茶飯事化した。
実に面倒な時代になったものだ。
さて、既にして過剰な紙数を費やしたが、まだ第一のテーマである「国債格付引下げ」のことしか述べてない。
とりあえず、こっちの結論を片付けておこう。
名目や実質もさることながら、国債の最大保有者が誰であるかを指摘することで、答は不動になるであろう。
それは日本銀行である。
日本銀行は、お札を発行する我国唯一の中央銀行であるから、国債格下はイコールお札格下。
よって、第1章終り。
印刷国債が印刷紙幣に置き換わっただけだから
少しも慌てる事は無いとも、、、、
経済の事は風の中と同じで、いずれある時間差を以て、お札を持ち,使う、全ての人に及ぶ。
その影響を、僅かでもゆっくりやんわり届くようにしたいと思ったら、お札を減らし現物置換を増やすべきである、、、、

次にミュージアム切捨ての話題だが、これは金曜日の19時30分から30分間ほど某国営Gチャンネルが放映していた。
資金的障害から官民を問わず、博物館の類いが危機的状況にあるらしい。
そのことは、以前から田舎暮らしを始め味わっていた。
 * 文化財  市に収まって  死蔵かい
 * ミュージアム 役に立たない? 役果せ
ワットのコウキシン<=文字化すると好奇心だが、この文字だと中身がずれてしまう。好んで求める興味で綴れば、高・稀・深と書きたい>の一つに、地図鑑賞と地名の考古的検証がある。
数年前、あるミュージアムの廊下の壁に、古絵図のカラーコピーが掲げてあった。
実物の大きさを示さず、説明表示が流動的なので、キュレーターに逢って確かめたいと思った。
受付嬢の電話で、館長が出現した。
若い方だが役人以外の何ものでもなかった。
尊大に構えるだけで、何の役にも立たない。
こちとらは、この手のメンツ100%インセンティヴ・オンリーの人種生態は、重々承知なのである。
* オウ役人  役職欲しがる  単細胞
さて、学芸員は出張中かと尋ねた。
愚問であった。
そこは、平成の大合併
     市になってから
     死に体になった
     市営展示館で、
     旧町名をタイトルに残した
     名ばかりミュージアム
     現実は倉庫施設であった。
館長ドノは、化石ロシアそのものであった。
共通言語は、日本語であるのだが、当方のお伺いは、0%の確率をもって鉄のカーテンに消えた。
学芸員が其処にいて始めてミュージアムであるから、館長なる名の守衛が詰めているだけの倉庫は、名称変更して「市営死蔵館=しえいしぞうかん」とすべきだ。
さて、そろそろ打切りたい。
モノは、モノの価値が判るヒトつまり学芸員とセットで始めて、世の役に立つのだ。
平成の大合併は、町や村が集まって市になれば、起債枠の拡大を認めると言う時限装置が勧めた愚行であったようだ。
地方自治体の起債枠すなわち公債を増やすことを、単に町や村から市になるだけのことで許してよいのだろうか?
大間違いである。
公債枠は、俗流経済学的にも、その発行者の償還力をもって決定すべきである。
地方自治体の償還力とは、固有資産が備われば格別だが、税収それも1年の歳入金額が上限であるのがフツウだ。
そんなわけで、平成大合併なる愚策のツケは、これから本格化する。単に隠されて来たものが、表面化するだけのことだが、どこの自治体も実情はユウバリ・シンドローム重症患者である。
税収増収策なのか、単に雇用の場創出のつもりなのか、思いつきで観光産業に手を出してしくじった例で、既にオープンになったのがユウバリ/シンジョウだ。
 * 役人かァ  単細胞にして  役立たず
思いつきで事業がうまく行くのなら金融のプロや経済人は無用である。役人ビジネスは無責任集団が借金して起す事業だから武士の商法と同じだ。
素人が倉庫番をするミュージアムが出来上がった原因もまた平成の大合併を経て、市が死に体になったからだ。
金融は英語でファイナンスだから、公債発行でカネを得た直後は、一時的に楽になる。
ほんの一時である、借りた金は金利付きですぐに返すことになるから、借金前以上に苦しくなる。そんな簡単なことは誰にでも予想できたことだが、それでも何故か合併に進み、公債を増発した地公体が多かった。
合併なった後の拡大新市の首長は、既存ミュージアムを閉鎖するか規模縮小するかに向かわざるを得なくなった。
規模縮小とは、学芸員不在化現象のことである。
これ等は公立ミュージアムの例である。
公立ミュージアムは、名のみ存続するが、実体はキュレーター不在の物置だから、失われたと同じことである。
ミュージアムが消滅するとどうなるか?
賢明である公選首長が、無知なヒットラーばかりではないと信ずるが、思慮の浅い人が多いようだ。
ミュージアムの果たす役割は、郷土の誇りであり、地域の個性の保存であり、アイデンティティーのシンボル・センターである。
ミュージアム消滅は、則ち大都会に出てしまった「顔無し」達が、ついに「根無し雑草」になって、漂流することを確定的にした。
ミュージアムは、何も公営である必然は無い。
だが現実の問題、公営倉庫が収蔵機能を果たす役割は一層拡大しているのである。
その背景はこうだ。
民間の財団法人が行詰ってしまい、せめて収蔵品だけでも公が引継いで欲しいとの要請が急増した結果、正真正銘のガラクタ風物置小屋に化してしまっているのである。
この15〜16年特にそれが激しくなった。
財団法人り行詰りは、世上の平成不況とは直接関係がない。
それは財団法人が、その性格が経済行為や利潤追求になく設立の当初から半永久的存続のための基本財産を造成してスタートすることになっているためである。財団法人は日々の事業経費をその基本財産の運用収益をもって賄うルールであって、その運用利回りは年5.5%に設定される例が多い。
ところが、この15、6年で、そのような金利水準は遠く過去の夢物語になってしまった。
ただ、年5.5%は昭和戦後金融史における平均的中央金利なのであるから、この足元の平成金利の方が異常な低い水準と言うべきである。
国外との比較でも、その異常さは不動の事実である。
間もなく20年も続こうとしている。
では何故そのよう異常な金利水準が長期固定しているのか?
答は、金融政策にある。
国債・公債に頼る慢性的借金体質の政治公共体が、低金利に誘導しているのである。
金利は、そもそも経済事象の中で最も人による操作が難しい領域だが、何故か異常な長期をもって、政策的に低い状態に置かれてしまった。
日本の常識は世界のそれに反するの典型例だ。
官主民従のしきたりが横行する、この後進社会では、直接民間経済が関与しない公定歩合や財投金利が基準金利指標となってしまっている。
そう、最大の借金人である首長達によって政治操作されて、異常事態が長期固定化したのだ。
どうですか?  
桶屋流経済学は?
ニッポン国民が、異常な政治操作に異を唱えないので、海外の格付機関が代わって警鐘をならしていますよ。
もう政経分離する・公私のケジメを明らかにするところの本来のパラダイムに回帰するべきでしょう。
それに財政には、本来単年度主義と言う、借金を戒める基本原則があったはずなんだが、、、

長かったが、今日はこれまで