泉流No.1 川崎だいし

* 枕辺に 川崎だいしが 音届け
〔自註〕 この夜は眠りが浅かったようだ。
この海辺の街に移り住んでもう2年が過ぎた。
日本海側の地に生まれ、30数年振りに振出の地に戻ったのだから、この地の秋から春先に掛けての強風は、折り込みのはずだ。借家を捜すうちに雪対策は折込みながらも狂風のことは、すっかり忘れていた。
20年近く都内に住んで忘れてしまったのだろうか。
屋根雪が融けて、雪解け水が何かを叩き続けている。あっちからもこっちからも、夜通し止むことなく耳に響く、その音の妙な響きに何か通ずるものがあった。
しかし,川崎大師は2年詣での人出の多さで知るだけで、実際に行ったことはない。
川崎大師の音と言えばあの飴売り屋台。その昔、どこかの夜店に出向いて来ていた飴売り屋が出す音、ひっきりなしに包丁と俎板を打ち付けて出す単調な騒音の連続・大合奏を、薄ら寒い布団の中で憶い出していた。
さてさて、加齢とともに我が凡人才の願うものは、基本的動物レベルに回帰する。食う・寝る・こきだすの3つが安らかでさえあればよいと思う。よって、不眠はおおいに手痛いのだ。
60数年の人生、果たして室内に寝ていて、天変地異をもろに受けとめることがあっただろうか?
台風など格別の悪天候を別にすれば無かったようだ。
しばらく考えてみて、結論らしきものに至った。やはり加齢の一語であった。若い頃は、どこでもいつでも虚心坦懐に深い眠りを続けられた、今はもう無理だ。
音源は、前々日らいの北極振動がもたらした集中豪雨の雪バージョンで降った大量の屋根雪だ。
2日連続で家の周りの雪掻きをした。
後述するとおり家のツクリからして、手が届かないから、屋根雪はあるがままだ。
その屋根雪が、昨夜来のこれまた北極振動の気紛れによる、急激な気温上昇で、夜の間に融け始めたようだ。
つまり、寝不足の朝こうして悪の原因は決った。
余計なものをなお2つ。
まず、日本海岸を生地に向けて何度も往復したが、この50年ほどの間に失われた風景がある。
白砂青松が消えた。
鉄道の退潮と重なるタイミングで、鉄道防砂林もボロボロに歯抜け状態になり、放置され、鉄道以外の青松の景観もまた概ね衰えた。
その景観は、枯れ木も山のにぎわいを、地でゆく寂しさだが、青松の前景を形づくる白砂の海岸も大いに痩せ細ってしまった。
海岸が貧弱になったのは、なにも日本海岸だけではない、列島全域の中で日本海はむしろよく残っている方であるようだ。
白砂青松など生産性に直結しない自然など忘れ去られて久しい。生産性偏重のカルタゴプラグマティズム経済社会では邪魔者扱いだろうが、古い言葉に「無用の用」と言う深い教えが示すものの意味を一層鮮明に憶い出す。
放置することは無用の用扱いをすることではない、然るべく維持保全の措置を講じて、古き良き風景を損なわないようにすべきであった。
現代において失われたものは、概ねそのようなものだ。つまり、それだけ現代人は迂闊に杜撰になってしまったのだ。
最も手痛いロスは、人と人の『絆』であり、見えないものに想いを巡らす『悠り』であろう。
とりわけ白砂青松を見ない地域、加賀平野と越後平野の二つ、どちらも人口密集地、経済成功の地である。
白い砂の海辺が失われ、代わりに現れた外来種、その名もテトラポット。ここでもまた列島固有種は失われた。
海の景観が失われた背景には、河川源流におけるダムの存在があるようだ。
ダムは、電力生産、農業感慨、都市上水道と幾つもの効用があり、地域繁栄の一要素である。
効用を得た代償として好ましい風景が消え、秋葉原、ヒ広島の工場、取出などで不可解かつ殺伐な事象の多発を聞く世となった。
最後に、家のツクリ。
徒然草にあるように、住居は夏向きに造るのが、この国固有の作法であるらしい。
その帰結として、天変地異による音や気温の変化は、枕辺にまで着実に届く。
我家の前は田んぼである、水稲栽培はモンスーン気候に最適の食糧生産法らしいが、コメ農家の住宅は室内に居つつ、外気の変化を敏感に感じ取りやすいように、わざわざ造るものらしい。
寒冷対策のために水の管理を怠らないことがイネを守ることになるかららしい。
高温多湿も困った風土だが、インド洋からヒマラヤ山塊の激変をもろに受ける列島の大気、激変する狂風、ドラスチックな風向きや強弱の急変もまた脅威だ。
日本海岸から見える小高い丘陵テラスに見る風車群。
エコの時代の先駆けとして設置された欧州製の風力発電装置は、遠望するところほぼ全く動かない、廃棄された風車の陳列場列島と化している。
北海に吹く風とモンスーンの風とでは、相当にサマが異なるのであろうか?大陸の西端と東端とでは、求められる風車の性能が異なるのであろう。
穏やかに暮らすには、家のツクリを考究する前に、土地選びに配慮すべきかもしれない。
大陸の西・大洋の東は、安普請で済むかも・・・・