閑人耄語録ーNo.67

* 僻村に  鬼女二人出でて  雨あがる
〔自註〕10月9日ライブがあった。我家からは50キロほど南にある隣の町の臨時?会場で行われたのだが、、、
言葉の使い方にクレームの畏れがありそうなので、まずその辺から、、、
僻村<へきそん>だが、詩人の一人として始め耳にしたとき、すぐには字面が浮ばなかった。現地に行き印刷物を見て納得した。正しく言えば納得する過程にあるような気がする。過程にあるとは、すべてを一身に引受ける覚悟の完成度がまだだ、、、現代は用語について厳しい時勢であるが、その枝葉末節の指摘または糾弾に対処する、我身の心構えが未だ不十分な気がする。
メディア・コードについて、十分な備えが無いままにインターネット機器の進化に便乗した状態だが、明治政変以降から今日までのメディアと権力機構の近接を考えた場合、コードなるものが自粛なのか?制度規則なのか?はっきりしない。
行きがかりで、少し細い奥の道に踏込むが、メディアとメディアム、いずれかが複数語で残る一方が単数だそうだが、外国語に弱い(実は日本語も柔い)から、何故単数語が霊媒で、複数語メディアがマスコミュニケイション媒体になるのかよく判らない=詳しくは下記著書

メディアの発生―聖と俗をむすぶもの

メディアの発生―聖と俗をむすぶもの

 =を参照下さい。
とまあ、すべからく現代用語は、取付きが良さそうで,差障りのなさそうなリテラシーを強制し、それがあたかも当人が自ら選択したかのようなムードを醸し出すことで、本質を覆い隠す嫌いがある。
本質とは、差別用語の使用ではなく,差別する意識の有無如何なのであることを忘れてはならない。
さて、本題に戻ろう。これまで表出された咎めの懸念ある言葉は3つある。1が僻村、2が鬼女、3が臨時の会場と言う言い方だ。
由来あるものは、それを示せばよいから、ある意味簡単である。第1の僻村は、手元に残ったリーフレットに「財団法人 白山麓僻村塾」とあるので、それで良しとする。ハード・ドキュメントの証拠がある、これほど安易な責任逃れは無い、まして、財団法人であれば、この国のステータス族がこよなく愛する『国』のお墨付きであるから、最上級と認め(私を除く)られよう。
次は3だ。因みに2の方は、うまく言えそうにないのでアト廻しとしたい
ライブコンサート会場が、古ぼけた小さなお寺なので、失礼の段、前後の障りを考えずに「臨時の・・・」としたが、悪意はまったく無い。むしろ僻村にふさわしい適確な状況説明の言葉かも、、、、
踏込んで詳細を述べるとこうだ。かつて20年も東京圏に住み、公演を前提としたホール建築の存在が記憶の片隅にある。聴衆の一人としての感動は、建築物の出来映えと無関係であることも体験的に弁えている。まあ、武道館なる例もあるから容れ物は3の次、どうでもよいのかも、、、、
県境の、奥山の中の、それも電源開発なる国策遂行のため、ダム建設に協力して、地域ぐるみ集団で、麓の平地に移住し、それにより過疎化が進み、住民の数が激減したのであった。
そして住民が支えることで成立つ宗教施設は日本中の特に人口減少が著しい過疎の村では、どこも古ぼけ小さくなり、やがて消えて行く運命の下にある。
コンサートのための会場など、成立つはずがないし、もともと建てる土地の余裕が無い。
がしかし、コンサートの満足度は最上級であった。事実、無性に涙がでて震えた。
会場が小さく聴衆も少なく、演ずる人との距離が近い。それだと思う。
何と今年で、つまり年1回の定期でないから臨時公演だが、今の寺に移ってからでも、もう12年連続で開催されているのだと言う。
聴衆の中には、東京在住者が居るそうだ、片道600キロはありそうだ。
これは想像だが、墓参りか親戚廻りかをこの時期に重ねる工夫があるかも、、、、
更に逞しく想像すると、白山麓はこの国でも有数の規模の広大な山間耕地がある、焼畑農法で知られた地域で住民数も多かったようだ。
その山岳の民が平地に移動することの意味は、都市民の人事異動による引越やその延長とは全く異なる次元のもの、、、体験者でない筆者が想像は愚か文字で表すことに無理がある。
当初の集団移住先は金沢市周辺の近郊農村であったが、後に世代が変わるうちに、遠い関東圏まで移住を重ねる例もあったであろう。
最後は鬼女のこと、複数語で表したいケースかな?
マヤは、高名な女優である。
この白峰と相当長く交際があるとか、謂れは知らない、、、
ネーネーは、沖縄生まれ育ちの良く知られた唄い手である。
これまた白峰との付合いが長い。日本列島の長さのほぼ半分の遠い距離を隔て、しかも足場の悪い所に、もう10数年連続で公演しに通ってきている、、、、
他に専属楽団員1名だが、シンセサイザーとは名奏者の手にかかると凄いと実感した。
ネーネーは、唱いながら手に持った民族楽器を演奏することがある。
専属楽団員の談話によると、ネーネーは、作詞・作曲・訳詞・編曲をすべてこなすそうである。
ニライカナイの女は、なべて神に仕える存在らしいが、その中でレベルが最高域とは、格別選ばれた芸能の者であり、あらゆる点で抜群でなければならない。
だから?ネーネーは唄も言葉もよく判らない。
他人は知らず筆者にとっては、音曲としての感動が大事なのであって、言葉の意味を求めようとは思わないのだが、、、、実に行き届いている、
一節ごとにまずマヤが訳語の詩を朗読し、続けてネーネーが唱う。その掛け合いが素晴らしい。
さて鬼の由来、唄と唄の間に、マヤが話をする、舞台の配役が鬼、余人を以て代え難い云々、聞き漏らした。
だから、鬼は行きがかりのようなものだが、眼をつむって感動に浸っていた2時間は、そのとおり鬼に引回されていた。
どちらかが、そして或はいずれもが、女神のようで、女鬼でもあった。