耄想陸行録 第19稿

* どうしたら  タコツボ出れるの  ロジンさん
〔自註〕大陸3週間の旅は、3度目の訪問だが黄河流域歴訪は最初の体験であった。
北京から入って廻り、そして北京から帰国した。
魯迅の旧宅も天安門も、ホテルからの散歩圏のうちにあった。
既に述べたゲーリーシャージャーは、北京でも頭角を現した、3度目の正直とも言うべき招かざる客人なのだが、、、
その来訪は、アト数日で列島に行き着けると思う油断を突かれたようでも、また長旅の疲れのせいかも。第3の要素・首府に滞在する緊張感があったかもしれない。地域自決を理想と思う癖で、どこであれ中央主権の足元に近づくと、反権力アレルギー症状が再燃するのだ。それは意思とは別に働く不随意先天性の地と血の遺産を受継いでいるためかもしれない。
どれもこれも要するに、タコツボから来る緊張と疲れなのだ。
ここで言うタコツボとは、筆者の異様とも見える旅行中の恰好であり、根底にある心情のことである。
恰好とは、後頭部から背中に垂れるヒレ付帽子を被り、サングラスとマスクを着け、カメラは手に持たないようにしたこと。
その程度の事でしかないが、ある懸念があって自己保身に務めたのだ。
懸念を抱いた根拠は何かと言えば、『大地の子

大地の子 一 (文春文庫)

大地の子 一 (文春文庫)

の一節であった。
第一巻の217ページを引用する・・・寝言でもお上批判はするな・・・のくだりだ。
秘密警察の存在を直感した。
隠されている秘密警察の事は知りようもないが、存在を前提として、一目で外国人と見えるように振る舞った。結果として何事も無かったのだから単なる杞憂であり、過剰反応のお笑い草だったようだ。
旅の間ホテルで休養する時は、熱暑と洪水が気がかりで、務めてTVを見る事にした。
耳は全く駄目だが、眼から入る映像と簡体字とに逞しく想像力を働らかせた。
何度も何度も、袁世凱の文字と馬に乗ったニッポン軍人の行進風景が流れた。
先の大戦は65年前の8月に終わった。その前月だから歴史特集のシーズンだ、番組予告らしい。
想像が当る自信は皆無だが、現政権の期待に沿うプロパガンダなのだろう。
この2つの強大な軍事力を排除して建国の大業を成し遂げた昔を回顧させ、現政権の権威を賛美しようとする意図を感じた。
袁世凱(1859〜1916)は、郷紳から出て中央に進出、清朝打倒に関与して、中華民国成立の初期に大総統に登りつめ、国論の分裂と軍閥の分散割拠による混乱に乗じて、介入する侵攻軍であるニッポン軍部と渡りを付けて帝政移行を宣言し、念願の皇帝に就任するも、俄に起った全国規模の民衆蜂起の中で急死したと言う、理解し難い経歴の人物だ。
ニッポン軍の役割は、大陸の歴史では悪役に尽きる。アジア太平洋戦争の結果を待つまでもなく、理解に苦しむ海外侵攻に終始し、最期は解体され消滅した。
開国以後、明治政変が一段落した直後から一貫して内外に緊張をもたらす膨張政策一辺倒であった。
戦乱の記憶は、加害側以上に被害側でこそよく保存される、それが洋の東西を問わず人の世の習いであろう。
列島人には加害側の一員としての記憶がどこかに付纏う、それを「タコツボ観想」と言おう、祖先達がしでかした消えない過去である。
実はタコツボは2つある。
赤色朝が掲げる建国美談的「タコツボ主義」スローガンと列島人の身に備わる「タコツボ観想」だが、
この2つのタコツボの互いの距離は、遠いのか、近いのか、その座標は、幾分重なるのかそれとも全然重ならないのか?
その答または結論に至る道は、旅を終えて3ヶ月が経過しようとするも未だ見えない。
その未だ見えない彷徨いの過程は、ほぼこの100年の日中交渉の歴史をなぞり確認する事であった。
そしてその膨大な事績の整理の過程から、大地の子が残留棄民とされてしまった背景もまた見えてきた。
そこでポイントを並べてみるとしよう。

1、先の大戦における終戦の日付を、大勢は8月15日とするが、そんな単純なセンテンスで片付けるべきでないと思う。
終戦詔勅をラジオ放送した日に当るが、国内の一部では未だ終戦ではない。
米軍上陸から軍政の下にあった沖縄は、当時終戦対象地域ではなかったし、以後も継続して65年もUSAの実効支配下に置かれており、未だ終戦ではない。
そしてもう一つ、北海道の東に附属する島嶼部もまた同じと言える。ソ連軍が侵攻した日から今日只今まで一度も終戦の効果は及んでいない。
このように大勢の描く終戦概念は、厳密と慎重さを欠き、いかにも杜撰である。
この南北の端々もまた我が国土である以上、この国の終戦は完結していない。
2、事実上のポツダム宣言受諾となる東京湾停泊のミズーリ艦上での降伏文書調印には、9か国が署名参加した(1945.9.02)<筆者はポツダムミズーリ体制と呼ぶ>。
中華民国などの調印9国は、交戦国を代表したもので、全方位外交路線であったと解せよう。
因みにこの時、中華人民共和国は未だ成立(1949.10月。蒋介石率いる国民政府はこの年の12月台湾に移った)していなかった。
3、ポツダムミズーリ体制は、いつ終ったか?
大勢は、1951.9月のサンフランシスコ講和条約締結とするが、これもまた厳密慎重さを欠く。
45カ国が調印したが、招かれながら調印しなかったソ連などの東側と招かれもしなかった中華人民共和国との間で、国交が無い状態を放置した。
その後、ソ連などの東欧圏や南アジアの国々とは各個別に条約締結を行って、終戦処理としたが、大陸との関係は、台湾の国民政府(中華民国亡命政権なのだが、いつ何故そう呼ぶようになったかは不明)との国交を維持するため、引続き放置した。
結果大陸との国交は、27年も断絶状態が続いた。
そして『大地の子』の下敷きである「大陸残留邦人」を長期間かつ大量に放置する事態を招いた。
さて、この第3項の設問に対する答だが、ポツダムミズーリ体制は在外邦人(海外在住者に沖縄と北方4島の住民を加える)を除き1952.4月となる。勿論1951.9月のサンフランシスコ講和条約を踏まえた国内法の施行であるが、それは間接統治なる法形式の上でのことでしかなく、実態統治者は超法規的存在としてその後も絶対者であり駐留し続けている。
4、1972の大陸との国交再開は唐突であった。
全くの米国追随で、突然ニクソンが訪中したのを受けて、押っ取り刀で押掛けた。
これはこの国の外交史を貫く「バス乗り遅れ回避症候群」の一端だが、20世紀の2つの大戦への突入もまた戦略無し・計画無し・準備無しの唐突拙速流であった。
5、この国の国際政治への対応に課題が多いのは、先稿で述べたとおり、地続きの国境が無いことからくる国境定見の欠如、外交センスの未熟さにある。
戦後は特に酷い。国際問題とは則ち対米交渉だ、それ以外は国際外交でないと想い込む外交音痴がある。
その根源に格別の事実、無条件降伏の問題がある。
その国際法上の根拠は、未だに不明なのだが、一度の恫喝に屈し、その姿勢を先例にいつまでも改めようとしない官僚や為政者の怠慢が手にとるようにみえる。
かつて、ニッポン軍が群雄割拠状態の軍閥に個別に渡りをつけ、かの国の混乱を増大させた、そのやり口を戦後になって米軍が踏襲、個別政党や官僚と渡りをつけて本来守られるべき国益が切崩されていると言えよう。
全方位外交によるラウンドテーブル方式を嫌う事で、ベルリンの壁消滅から20年超も経過しながら未だに東西冷戦体制を引きずっている。
この驚くばかりの外交現実は、世界の水準から2周回半後方を蛇行しながら漫歩しているようなお粗末さだ。
全方位的対処を欠く不手際が一貫してみられ、腹立ちを覚える。
さて、そろそろロジンさんに触れておこう
魯迅(1881〜1936)の経歴や著作についての探索はこれから着手するが、概略の人物像を以下に示したい。
文学者・思想家として大陸の民主化・近代化に寄与した人物だそうだ。日本に留学し当初仙台で医学を目指したが、途中転進したらしい。
口語文で書く文学上の革新運動が民衆規模の思想改革につながり、かの国の近代文明化に貢献したと言われる。
しかし、彼の評価は、列島では難しいかもしれない。
それはシマグニ住いのタコツボ人が、ナショナリズム・サングラスでもって一方通行的に外国人を見ることにある。そしてそのことを改めようとしない、それが大勢のならいのようだ。
彼が著作を発表した上海創刊の出版物が、その後に成立した共産党の初期における機関誌に変り、更に戦後になってから、政権を担う一党独裁の政権党に躍進した。
彼の目指した民主化共産主義とが、相互に重なるかどうか筆者にはよく判らない。
国内統一が成り、レッド・チャイナが成立<1949.10月建国>すると、この新しい「タコツボ主義」イデオロギーを外部に向けて盛んに発進し始めた。
この頃を題材にした映画がある。
『慕情』である。
そこには、タコツボ問題のほとんどが網羅的に描かれている。
ここではボーダー・ストレスと異質性排除の2つに絞ることにしよう。
眼に映る像として国際空港のフェンスを描き、もう一つの方は眼に見えない壁=主役の人物設定として、たっぷり用意されている。
その仕掛を一部紹介しよう、
カップルが共に抱えるハンディ・キャップ、互いに国籍が異なる、パスポートによって香港滞在期間が縛られる存在だ。
男の方は別れた妻が離婚に同意しない短期駐在が当たり前の特派記者、相方は中・英人の両親を持つハーフの女医と、、、蔑視される?材料は、盛り沢山だ。
ハンディは、自らを健全人と想い込むある種の人達の餌にされやすい。
思い込み健全人の多くが、より狭い属性を志向する自尊本能や定住を希求する安心本能を持つが、これが形を変えて他者に自己流を強制したり、僅かな異質性をほじくって排除に向うなど、所謂差別行動に向う。
残るもう一つタコツボ性ボーダー・ストレスは、国の違いが招く制度の障壁である。
当時の香港は、返還され一国二制度となる、はるか以前の頃のこと、しかも赤色イデオロギーから逃れるために脱出してくる人たちで溢れるワンストップ・ステーションだった。
広く眼を転ずると、人の往来と物の関税の壁を取払った欧州連合の例がある。
今のところ経済統合段階だが、欧州連合の行く末に明るい未来があるとすれば、東アジア諸国もそれにトライする度量があってよい、、、、
そうだ先史欧州は、文明発祥から最も疎遠の地であった事実を思い出そうではないか、、、、
この映画には、時の波に翻弄され、ボートに乗合せてしまったピープルの悲喜が、ボーダーパースンの人情を交えつつよく描かれている。
さて、そろそろ筆を置くとしよう。
イデオロギーについて関心のない筆者の願いは、実に単純だ。
いついかなる時も、どこの誰とも、仲良くやるべきである。と考える。
だが、外交の現状はそうなっていない。個人の力では如何ともしがたい悩みがある。
国を越える交わりは、タコツボに潜み、無意識サングラス越しに眺め、いがみ合っていて、果たしてハッピーな未来に到達するだろうか?
タコツボからの抜け出し方やタコツボ・ナショナリストとの接し方を留学経験ある魯迅さんに習いたいものだ。
今日はこれまでとします。