耄想陸行録 第18稿

* 遠目にも  泰山キスゲ  咲く日かな
〔自註〕花の命は短いと言うが、開花は一日限り、朝開いてその夕べまでに閉じてしまい、二度と花びらを開くこと無く萎んでゆく種もあるとか。
小学校の夏休み研究にされるアサガオがそれに当るそうだ。
泰山<タイシャン、たいざん>を登る途上で、向いの山肌に眺めた、あの黄色い花もまた「いのち短い一日花」であったように思う。
記憶の中にある「一日花」は、尾瀬池塘<ちとう>周辺で見た黄色いに近いオレンジ、姿がラッパの形に似た、花の群落である。
名前は、ニッコウキスゲと聞いたようだ。
遠目に見た花が、キスゲであるかどうか定かでないし、そもそも泰山キスゲなるものがあるかどうかも知らない。ここは詩歌づくりのアバウトな発想で、、、
泰山には、済南市<チーナン、さいなんし>からパック観光バスに乗り、高速道路で徐州方向に向かい、途中のインタチェンジで降りた。
泰山〜済南間は、70キロ内外であろうか?データ根拠は持ち合わせないので、眼の子計算だ。
市内走行に付きものの渋滞と高速道の走行速度がとても速く、眼の子は当てにならない。
交通標識を殆ど見かけなかったし、高速道に速度制限があるかどうかも未だによく判らない。
余談だが、データ詮索に拘らない詩的アバウトの旅に徹したのが正解であったと今は思っている。
尖閣島とフジコウ社員4名の拘束とをどう繋げるべきか決めかねるが、赤色朝の人権レベルからしてさもありなんだ。
人権レベルについては、中華文化圏特有の背景があって、大陸・廻廊半島・列島の東アジアにおける役人天国と表裏一体であるようだ。
この根深い大衆軽視の風潮は、残念だが百年河清を俟つくらいの進展期待度であろう。
脱線ついでだから、早足で一応の区切りまで行くことにするが、
東と西との間に人権レベルにおいて著しい隔差がある。その理由として次のように考えてみた。
欧米の人権は言わば、この世における社会の決め事である。よって、有史以来 階層の間の障壁をならすべく、段階的に新しい世界観を構築し、着実に進化してきた。
他方 東洋世界における人権は、この世だけの問題ではない。つまり現世社会をも含めながらより広い。
宇宙観や死後の世界をも包含する総合的な科学観が根底にあり、天・地・人の各界の因果は切れずに繋がっていて、この世からあの世に引きずるのである。
そのことは何をもって、そう言えるか?
西欧世界と東洋世界とでは、墓に対しての執念・妄念の浅薄が対照的であると想うからだ。
2地点間の距離論から思わぬ脱線となったが、要するに日帰り圏の位置関係だ。
済南市は、別称「泉都」とするくらい、泉が多い。
それは泰山山脈に源を発し、黄河下流の低地に向って流れ下る水脈の経路上に街があるからであろう。
泰山山脈は、山東省<シャントン、さんとう>にある、標高1千台、長さ200キロ程度の山塊に過ぎないが、大陸の歴史それも古い時代つまり基層文化を形成することに関与した地形・地名として、山容の規模以上の重みがあるようだ。
かつて、中原に覇を成すことが男子一生の仕事であるとする英雄イデオロギーの時代が長く続いたが、
その「中原<ちゅうげん>」と呼ばれた黄河下流の地に立てば、東の方に見える山塊が泰山山脈だ。
太陽が昇る東にある山は、格別の意味があるに違いない。
月見が行われるか、花鳥風月を愛でるか?それほど彼の国の民の心のありようについて含蓄を備えないので、これ以上踏込まないが、東は重きを置かれる方向だ。
そろそろ泰山についてのキーワードを3つ程述べて筆を置くこととしたい。
だが、その前に、筆者の疑問を一つ提起しておきたい。
それは、中原が何故黄河流域であるのか?と言う謎である。
大陸の国としての中心は現在は北京だが、歴史的な長さの点においても結論は変らず、広義の中原に当る空間概念であると考える。
北京にしろ中原にしろ、歴史的に空間的に北に偏り過ぎである、と感ずる。
食糧生産のウエート・センターからも、おそらくずれているのではないか?
大陸は、国境が常動的であり、国域の広狭が定まらず、概念規定を一つに絞るべきでない事は言うまでもないが、首府の偏倚の背景に関し何らかのヒントを得たいと思っている。
南船北馬」なる言葉がある。
一国二制度」なる現実がある。
かつて新大陸で起きた市民戦争と類似の火種となり得る、2つの大きな流れがあるかもしれない。
印象だが、基盤経済の農業について2つの地域区分、3つの形態があるようだ。
黒龍江黄河は、遊牧と畑作の農業地帯であり、長江と珠江は、水田稲作の農業地帯であると、括りたい。
畑作・稲作・遊牧、この3つの農業形態は、過保護から放任寄生型まで人との関わりつまり労働投下の厳しさにおいて大きな違いがあって、農業と一語で括り難いものがある。
洛陽近郊にヤンシャオ〔仰韶〕なる古層文化区分に
使われる地名があるが、そこでイネの栽培農業が行われていたかどうかが、目下の関心である。
余談だが、列島では稲作と定住とは同義であり、畑作と稲作とでは圧倒的比重が後者の方にあるが、この点に大陸との間に何らかの差異があるようだ。
中国文明が興る頃、稲作の規模は遊牧や畑作ほど広範囲に行われていなかったか、もしくは、通史的に黄河流域は稲作農業に不適なのだろうか?そのどちらか、いずれでもないのか、気になる。
予告どおり、本題に戻ろう。
まず、泰山は「五岳」の一つであるらしい。
列島にも「京都五山」・「鎌倉五山」がある。仏教寺院の名は、「○○山××寺」とされるが、山はそもそも神仙思想に繋がっており、根底に道教の影響があるようだ。
次に、秦の始皇帝は泰山に登って、特別の儀式を行ったと言う。
その儀式は、それ以後、時代が移り、王朝が交替しても、皇帝が行う重要な儀式として先例となったようだ。
為政者にとって、泰山は「天」に近いが故に報告する場にふさわしい山として格別の意味が付与されたようである。
3つ目は、ご来光である。
はじめ泰山山頂に1泊し、ご来光を仰いだ後下山して孔子廟に向う計画であったが、先稿で述べたとおりゲイリー君の再来や雲の切れない季節事情を考慮して見送った。
大陸の民もまた、ご来光を尊重するようで、山頂に多くの旅宿があった。格安チケット・シーズンは、雨が降らないまでも、遠望が利かない。
最後に階段を語る。
長途、急坂で高名である。階段の数が6千乃至7千段あると言う。中腹までバスに乗り、下山はケーブルカーとバスにした。登るだけで、限りなく大仕事であったし、生きて帰国して農業をする必要もあった。
世界遺産に登録されたせいか、実に夥しい数の人間を見た。坂道の途中で出逢った多くの人から激励の言葉を贈られた。正確に聴き取れたわけでも、まして意味を解する力も無いのだが、ニュアンスとして感じることが出来た。
同行の朱鷺先達とは、互いの体力差もあって、時々休憩タイムに視線を交わす程度であったから、白髪まじりの老人は我れ一人であったかもしれない。
  アンズ種  何度も踏みつけ  登るかな
梅の種であったかもしれない、、、、
励ましの言葉の中には、ハングルもあって嬉しかった。若くビューティーな女性であった。
東アジア3国・域で、山登りは盛んであると思った。
今日はこれまでとします。