閑人耄語録ーNo.61

* 百姓の  災難元年  始まるか  寒い春・梅雨  暑過ぎる夏
〔自註〕眼の前、足元は、依然として猛烈に暑い。世に暑さ寒さも彼岸までと言うそうだが、おそらくこの勢いで経過すると、死語扱いされそうな雲行きである。
それに、
海の無い・・・メグロならずも・・・秋刀魚来い。
の願いは、どう届けたらよいものかと思案するばかりだ。
炎暑の夏は、百姓泣かせでもある。露地栽培の野菜は、通常水やりするのは、苗の植付けや種を撒いた直後に限るのであろうが、そのルールも見直しを迫られつつあるのかも知れない。
体力の制約もあって、水やりの手が全く廻らなかったイチゴは、真っ赤になってしまい、ほぼ全滅状態となった。
それに青シソだ。
シソは、強い生命力を持ち、無為放任野菜の代表だが、気が付いたら、ほぼ一日で全滅していた。こちらの原因は、毛虫にまるまる葉っぱを食われて消えてしまったのである。
とまあ、平年の気候推移ではありえない、百姓にとっての災難の21世紀がいよいよ始まったようだ。
毛虫に関する以下の話は、想像である。
暑い夏が長く続く事は、おそらく昆虫を元気にし、生殖行動をも活発にするボーナスのようなものであろうか?
毛虫の母親は、蝶なのか蛾なのか定かでないが、彼等の好みの葉っぱに卵を産みつけて立ち去る。やがて、時が来て孵った毛虫は眼の前の葉っぱを食い尽くすのである。
その繰り返しは、例年の営みなのだが、今年の場合は、中期に継続しかつ大量の規模なのである。
気候変動がささやかれるが、今後、日本列島を取巻く海潮や大気の温度が亜熱帯なみに固定するのであれば、眼の前の毛虫暴動は、まさに災害元年の始まりとして認識する必要がありそうだ。
ノーベル賞作家パール・バック作「大地」の空を覆う蝗<イナゴ>の恐怖に、つい想いが飛ぶ。
彼の地、あの時代、農薬、殺虫剤が使えたか?使えなかったか?はさておき、我身に振返れば、名前はたとえ除虫薬・消毒薬と変っても、化学毒性を備え人体にとって所謂有毒な手段には頼りたくない。
蝗と毛虫とでは、空に現にあるものといつの日か行くものくらいの違いはあるが、ワトソンとクリックが生物分子の壁を越えてノーベル賞を受賞し、その知識体系が共有される現代に生きる者として、尚更強くそう思う。
空気も水も大地の土も、人と繋がっている事は言うまでもない。
そして、地球上の生き物もまた人類と全く同じサバイバルシステムを備えているのだ。
その通り、もう一度いおう。
名前はたとえ除虫薬・消毒薬であっても、致死量以下であっても、人体にとっても確実に有害なのである。
道端に、除草機を動かすシルバーの人たちを見かけると感謝しつつ、除草剤を散布されて時ならぬ枯れ草群
のゴウルド色を見ると、その無神経振りに腹立ちを覚える。