耄想陸行録 第16稿

* 規制なく 交通事故なきゃ 一りゅうもん
〔自註〕大陸では交通標識も交差点のゴー・ストップもほとんど全く見なかった。
それでまた交通事故も見てないのだから、それなりに申し分ない、理想社会である。
ただし例外はいつもある。前に書いたが、標識規制代わりの騒音?は困りもの。ストレスを起こしかねない。
と言っても、大陸なべてそうではなく、オラの体験に照らせば、北京・上海・香港などの大都市は除かれる。
これらの大都市は、列島と同じで、交通標識と交差点信号機と制服警察官の洪水だ。とりわけ首都は溢れかえっている。
第3句は、字余りだ。
意味は2つある、地域交通は一流のレベルにあることとそれが龍門<りゅうモン>へ向う途上であったことを表したかった。
発音としての<りゅう>が、重なるので繋げた。
一流とする根拠を示す前に、より判りやすい龍門石窟のおさらいをしておこう。
龍門石窟は、河南省洛陽の郊外を流れる伊河の流れに面し、両岸にそびえる石の山の壁面を削って彫り出された仏像群の集積で、世界遺産に登録されている。
三大石窟の一つである。敦煌・雲崗に並ぶ大きさなのであろうが、壮大さと文化的意義との関係がよく判らないので、文献の受売りに留めたい。仏教伝来の頃の時代人が共有したであろう熱情のほとばしりが、形をもって保存されていることは、よく理解できた。
龍門石窟の彫り出された仏像群は、おびただしい数で10万件に近いらしい。因みに制作された年代は、北魏〜隋〜唐〜五代〜宗にまで及ぶが、ブーム的中心は5世紀末から7C後半までとのことである。
北魏<ほくぎ、AD386〜534>は、鮮卑族が中核となって黄河流域に興亡した一王朝と説明される。
辞書からの孫引要約?だが、心細い事限りない。
と言うのは、漢字と言う表示記号を使う以上、中華思想を逃れる事は難しいからである。北魏の”魏”、鮮卑の”鮮”に”卑”と綴ると、この表意文字の示す差別意識がもろに浮んでくる。
自らの王朝名を名乗るに”チビで女々しい鬼みたいな存在である”などと表記するであろうか?
自らの民族名を名乗る人が、”サカナ・ヘンにヒツジ・ツクリを添えるような卑しくつまらない存在です”などと徒らにへりくだるであろうか?
外に向けてジャパンと言い、内ではニッポンと使い分ける列島人の器用さは、さておき、上述の字体を使わないと言いたい事が伝わらない。何とも不便な事だ。
列島内にも北魏様式の仏像がある。飛鳥大仏、法隆寺金堂釈迦三尊像法隆寺夢殿救世観音像がそうだ。前二者は、鞍作止利<くらつくりのとり>が仏師で、列島最古の仏教系美術に当るらしい。この頃の大陸との連絡は、ひたすら陸路を長めに採って廻廊半島経由で行われたとしても、列島への所謂仏教伝来は、想定以上の短時間のうちに届いたことになる。
さて、地域交通は一流のレベルにあるとするワット流目撃体験の報告である。
交通規則など行政の余計な介入や標識・信号機など面倒な規制表示がなくとも交通事故が起きない状況とは、地域なり住民なりの自己管理・相互調整が十分に機能しており、住民の社会協調性が抜群に高い水準にあるためではないだろうか?
それこそ理想の状況であり、交通桃源郷とも言うべき一流の天地に達していると考えたい。
河南省洛陽市の駅付近からバスに乗り、龍門石窟に向った。市内均一の最低料金で行く世界遺産訪問なので、申し訳ない気がする。
終点が行先なので気楽だ。間もなく座ることが出来た。バスの中から市中、道路を見渡していた。
やがて、妙な光景である事に気が付いた。道路の広い事、眼のこ読みで、端から端まで30メーターいや、40はあるかも、、、
両側歩道だが、歩道のあっち端がどこか、あまりに遠くて見極めが出来ない。車道との境=こっち端は、一応縁石で仕切りがあるようだが、所謂見た目歩道のようだ。
歩道と所謂見た目歩道とは、どう違うのか?
大陸の歩道は、自動車も走るし、荷馬車もリヤカーも自転車も当然のごとく堂々と走り、そこに駐車もされる。勿論時々人も歩く。とまあ列島人にとっては、所謂歩道に見えるが、かの地では歩行者以外を排除しようと考える気風はなさそうだ。
それに所謂車道だが、これは片側3車線の幅だ。右側車線を乗合バスは、例によってパァーパァー鳴らして走るが、バス停で停まる気があるのかどうかがはっきりしない。仮にバス停があっても、その辺に立っている人が乗りたいのかそうでないのか、どうやって察知するのだろうか,おぼつかない。
所謂車道自体、図体も大きく目立つバスが、一直線に走れるわけではない。どこからでも、横断する歩行者が出てくるし、中央分離帯側を逆走つまりこっち側に向って進行してくるクルマにリヤカーに自転車に、あげくの果ては、談笑しながら歩行している家族連れまで居る。列島人が見た目で道路区分して、やれ車道だ歩道だと決めつけてしまうのは危ないのだ。
中央分離帯側これがまた、じつにゆったりと幅もあり、背の高い樹木もあって、泰然としている。
中央分離帯側越しに、向こうの車線を透かし見る。予想どおり、あっちの所謂左側車線をこっちと並行走行しているクルマがいるではないか。
まあつまり、道路区分も走行区分もまったく無いのか、あっても守られないのか、歩・車混合、進行ベクトルも正逆入り組み、横断者がそれに90度の位相方向で参入する。
標識も速度規制も、交通規制サインも見てないし、事故もまた目撃しなかった。
互いに阿吽の呼吸で、うまくやっているようだ。なんと素晴らしいテレパス・コミュニケイトであろうか。その点列島はレベルが低いと言わざるをえない。役人が出しゃばってことさらルールを押付ける。
ルールが無いとワヤに混乱して、交通事故は避けられない状況となると、誰かが言いそうだ。一度民を信じてスロートラフィックで試行してみてよさそうだ.
列島の方が、間違いなく大陸より土地は小さく狭いのだから、標識・信号・警官・役人を削減して、財政再建、消費税増税回避、地域主権獲得に寄与させたい。

以下は蛇足である。
洛陽は、現代表記は、ヘンとツクリの上半分=つまり「日」だけである。
「らくよう」と聞くと、筆者の年代の者は、その昔教科書に出てきた「杜子春」<とししゅん>のことを憶い出す。
と言っても、芥川の換骨奪胎小説かなにかで、ぐうたらな若者が仙人と出逢って、仙人修行にトライしてしくじったようなストーリーだったようで、定かに覚えていない。
そこで、杜子春はさておき、洛陽のことを抑えておきたい。
延べ9つの王朝が都を置いており、古代史における政治文化の舞台として、黄河流域圏の主要な一画であったようだ。現代においても陸水交通の要衝としての役割は、変っていないようだ。黄河支流の洛河と中原に至る陸路とを繋いでいる。
龍門石窟の前の川に架かる鉄橋の上を長い貨物列車が警笛・轟音を轟かせ長蛇の車列で通過するのを何度も目撃した。
蛇足の2。
洛陽の近郊に仰韶村<ヤンシャオむら>があると聞き、行ってみたいと思ったが、果たせなかった。
5千乃至3千年前に作られたと思われる土器が出土した地だと言う。
土器とはつまり穀類を煮炊きする調理用具であるから、食物の生産から摂取エネルギーの主役に転じた時期と重なる=農業が本格化した時期を画する考古資料とされる。
筆者は、その方面のズブの素人だが、仰韶村が黄河文化圏内にあって、早い時期に土器が出たから、一時代を画する代表的年代呼称とされたように思う。
ごく最近になって、主として長江流域からコメ生産を示す遺跡が発見されている。
長江流域でのコメ農業の始まりは、更に1千年以上時間軸を遡りそうだ。
そして、現代もそうだが先史時代もまた、黄河と長江とでは基幹作物が別々であり、異なる文化圏と理解する方が相当と考えたい。
もちろん、その後北方から騎馬民族のプッシュがあり、漢民族は移動・変転を度々繰返しており、相互のシャッフルは、考慮に入れても二つの文化圏が並立併存する状況は変わらなかったと見るべきであろう。
概して新たなる考古物の出土は、歴史解釈を根底から引っくり返しコペルニクス的展開となりやすいが、地層中の植物花粉を分析して科学的に過去の環境変化を編年構築する環境考古学は、1980年頃にスタートしていると言うから、今日でも知名度の低さは已むをえまい。
ここでは、これ以上踏込めないが、関心のある方は、

をお読み頂きたい。
さて、筆を置くにあたり、仰韶土器<ヤンシャオどき>に戻るとしよう。彩陶のものが発見されているそうだ。
列島人になじみの彩陶は、正倉院展で見かける唐三彩であるが、その源流として、果たして仰韶土器にまで遡れるのであろうか?
平城遷都1,300年に当る今、奈良淡彩”表記はまま”のルーツたりえるかどうか関心を覚える。
今日はこれまでとします。