耄想陸行録 第15稿

* 囲い込み  内に籠って  自画自賛
〔自註〕平遥は明時代の初期に造られた古い城の壁に囲まれた街だ。世界遺産に登録されたことで、脚光を浴び、生き返らんとしている。
北の門から入場料を払って城壁の上に上がった。城壁の高さは、ビルの4階か5階くらいの高さだろうか?城壁の上は、城を守る兵隊の通路だから大人二人が手を拡げて余るくらいの広幅の平面がある。
城はほぼ正方形で、1周6キロとか、、、西の門まで約1.5キロメートルほどを歩いた。
真夏の暑いこと限りない日中だから、貸切状態であった。
この時も、たちまち切実な問題と出逢った、守備兵のトイレはどうなっていたのだろうか?
見張りの当番を一人で命ぜられる事は無いとしても、生命体に備わる自然の呼び声があったときは、その都度地平面まで降りるのであろうか、、、
などと、我身に照らして真剣に検討した。
そんな深刻な事態について、あれこれ余計なことを考えながら歩いていたら、急に背後に気配を感じた。
振返ると、自転車を引っ張っているおっさんがいた。城壁の上は、一際高所だからとにかく眺望は抜群であって、そんなタイミングでおっさんが突然出現するわけは無い、それも自転車付きで。一見ボロ自転車に見えて、実は新式の引力遮断マシンであったかも知れない。
時々水筒の水を口にしながら、前を後ろをきょろきょろしながら、炎天下の中をだらだら歩いて来たが、その同じ高さの面に、第3の男を発見する事態は想定外なので、少なからず驚いた。
列島なら、そのような立場の人は、徒歩であれ自転車であれ、制服を着用している。
そうだ、一見しただけで、互いの立場は明らかだ。この場面でワットが発するコトバは、全く揺るがない。ただ一つ「トイレはどこ?」。
だがしかし、その敵は普通のおっさんと変らない服装だ、しかもオラの方が外国人で、しかも現地語は全く出来ないとくりゃあ。
何でそんな所にその時間帯に、人がこつ然と現れる、、、どう考えても、こいつはただ者であるはずがない。しかも、オラが切羽詰まって、どうしようかと言う時にだ。
ひょっとしたら、こいつは、秘密警察の手先だ。
城壁を降りるまで、トイレは諦めて、汗で出すしかないと、オラは肚をくくった。
それからは、こっちが彼を監視することにした、それも見て無いように見せかけて、横目で遠ざかる彼の後ろ姿を視野の隅に置いた。
城壁の内側には、縁石の設けは無い。下手歩きして、けつまずくと転落死の懸念がある、屎暑い中での横目歩きは、すぐに頭がクラクラする。真剣に危ない事を悟った。
他方の城外側は、肩の高さに防壁と銃眼とが交互に、つまり凸凹歯形で続く、それに四つ角の位置と辺の中間にも一定の間隔で出っ張りが設けてある。
出っ張り構造は、城壁の外壁を斜め上から見下ろすために造られた物だが、そのような重要な箇所には、監視所があって、お偉いさんが駐在したのであろうか、ボックス状に区切られ、石の家がある。
期待に反して、中に入る術はなかった。
内なる自然の呼び声は、依然遠のく事もなく、汗で出すなどと肚を決めても、排泄系の在庫を全身の外皮膚に再配分する、そんな器用な状況展開が実現しそうもなかった。
広大な国は恨めしい。
時至って、西門の階段から地上に降り立ち、事なきを得た。
閑話休題、西門のすぐ内側、眼と鼻の位置に、朝だけ店を開く外食屋台がある。次の日の朝、勤め人時間帯を過ごして、遅めの客になった。
隣のテーブルで食事していた母と子、やおら子の方が親に何か告げてから、屋台のある道路部分、所謂列島では歩道と呼ぶ位置の道から出るや、車道を歩きながら「小の方」を始めた。
時に旋回して見せるなど、、、ガキは周囲の視線を意識しつつ、のっている。全く悪びれない。
ワットは、予備知識がなかったから正直驚いた。ところが周囲を見渡すと、現地のお歴々は、皆笑って見ている。その男の子の母がまたじつに平然としている。ヘイヨウなる街の名にふさわしい光景だとは全く思わなかった。
同行の朱鷺先仗は、我が表情を察したのか、適切な解説をしてくれた。「小に限らない、車道の大は数日保存されるが、誰も気にしないよ」
ワットは、少し抵抗があった。明日屋台に着席する前に周囲を念入りに見回るようにしよう。
なんせ、消化器系は繋がっているんだから、テン突きもあるにはあるだろう。だがしかし、身の安全はまず景観からだ。勿論、この場合の景観は、臭覚を含む五感が伴う景観だ。郷に入ってはゴウに従えで、せいぜい自己防衛するしかない。
さて、句の意だが、平遥を離れる日の朝、ホテルからしばらく出られず、出発時間をロスした話は、既に書いた。その続編である。
住環境のことである。街ごとそっくり城に囲まれ、その街中の個々の家屋がまた防御壁に囲まれて建っている。中と外とが明確に遮断できる点で、凄く良く出来たシステムである。この住居構造で街は出来上がり、千年、二千年やってきた、そこに大陸人固有の民族性が示されている事に気が付く。
個々の住居が集まって通りが出来、そして街が出来るから、都市計画は、世界中どこも同じようなものかも知れない。たしかに、京都の町屋に似て、間口が狭い。鰻の寝床状に縦長だ。建築素材は、木造ベースだが、模様付き原色カラー塗装され寺社建築風だから京都の町屋とは違う。
石造りもある、火薬が相当早い時期に使われ始めたハイテク・シノワだから、防火目的の面と、木材資源が早くに枯渇し、植林再生が難しかった大陸事情からして、コスト面で差がなかったのであろう。
平遥の住家の外側には、窓がない。この点ワットは京都に住んだ事がないので、京都の町屋ウナギの横腹に窓があるかないか定かではない。
平遥の住家の入口は、通りに面した1カ所だけである。裏に出入り口は無い。入口の奥が中庭で、すべての部屋の窓は、中庭にのみ向って設けられている。
入口をしっかり防御し、施錠する事で、内外の通行は容易に遮断できる構造である。
住人の商いによって、若干の変化はありそうだが、入口から中庭は容易に見られないように仕掛がある。頑丈な中間壁があって、見通せないか、二重・三重に内門を設けて外からの視線を遮る工夫がある。
これだけ手間暇かけてバリヤーを改善しシステムの改良に長い年月を費やしてきたことに、まず気が付いた。
ついで、投下した時間の連なりと投入した人的資源の量と蓄積した知識の集積を思うと、根底に定住に対する強い願望があることが見えてくる。
にもかかわらず、国境の外には、チンギスハーンのような、凶暴な破壊分子が周期的に出没して、定住から移住へと不本意な集団逃亡を余儀なくされた歴史がある。
福建省にあってこれまた世界遺産に登録された「客家<はっか>集合住居」などは、そのエヴィデンスである。
さて、そろそろ筆を置きたい、、、定住の前提には、食糧生産つまり農業革命の成立がある。
農業と一口に言うが、人類史的には地球規模で、未発見かつ今後報告されるであろう方式も含めて二桁にならんとする異なるタイプの食糧生産文化がある。
それを大陸東部アジアに限っても、主として黄河流域の栽培型と遊牧型、長江流域に起ったコメ型の3つがある。
この3つの型の中に、放任・寄生型農業から過保護・過剰介入型農業まで層的な分布分散が認められる。
遊牧型はモンゴル自治民と重なるが、彼等の社会には
中国文化圏固有の風俗である苗字=家の名称が存在しないらしい。生活の基本となる基本財産が常動する生物だから不動産の属性を備えず、しかも定住と両立しない風土だからであろう。
だから、モンゴルを旅してゲル住い・オタクを見つける事は、難しいかも知れない。彼等の可動住宅ゲルは、開放的でこそあれ、閉鎖的でありえないからだ。
対する列島人は、どうだろうか?
有史以来『倭人』と呼ばれ、史書には「東夷」と書かれてきたそうだ。要約すると、おとなしいチビスケてなもんだろう、、、そう言われても、シマグニ・オタクどもは、チュウカ・オタクどもに対して「おれたちゃ、倭<イ>でも夷<イ>でもない」と異<イ>を唱える事はしなかったようだ。
たしかに自画自賛の病いに取り憑かれ放しのチュウカ・オタクは、自分以外はすべて『えびす』扱いして野蛮・未開と決めつけていたようだ。南に赤蛮<えびす>、西に白戎、北に黒狄、東に青夷と、、、文字は異なるが発音も意味もすべて”えびす”で十把一絡<じっぱひとからげ>扱いである。字面にケモノヘンやムシヘンを含む例もあって、白人のエスノセントラリズムばかりを責められないと思う。
すべからく人は、胸襟は広く、クールヘッド、ウォームハートで他者に接しなくてはならないのだが、、、
今日はこれまでとします。