耄想陸行録 第14稿

* 商街路  ヘイヨウのんびり  歩かれず
〔自註〕舞台は、引続き明代古城世界遺産の街「平遥」<ピョンヤオと発音表記しておくが、アクセントが微妙な言語であるらしく表記上の限界があるもの>である。
平遥は、四辺を城郭に囲まれた城の中の街である。
一際異様を放つ城壁は、広大な平地の中、畑の向こうに高々とそびえ、一目見渡す限り続いている。
何とその長さ、一辺は約1.5キロメートルだと言う、
さして急ぐ旅でもないから、壁に沿って一周するくらいの実証性があっても、と想うだけ思った。正方形型と仮置きして延べ6キロ、白日の日中、太陽は直接見えないが、時節柄とても気温は高い。想うだけに留め、城の内側に入った。各辺の中央付近に、じつに大きな念入りに造られた入口がある。おそらく4つ門があるのであろうが、城の外が田園にあたる東門は割愛したので、何も語れない。初日に西の門から入った時は、格別の感慨もなく水平移動感覚で入城したが、翌日北の門と南の門を見に行って、遅まきながら、城とはやはり城なのだと再認識した。門外には、川があり、橋があり、アップダウンはある、左に次いで右にと曲がったり昇ったり下ったりと余計なことを何度もしないと、出入りできないのである。
城とはそんなものだ、何をくどくどとアホなことを、、、と言われそうだが、方形面積約2.3平方キロの平面の中には、古い形式の民家がびっしり建っている。
大陸の城の中に住む住民は、城壁と守備兵によって守られる存在であるのだろうか?世界標準の国境観を持たない環境の中で育った列島人であったせいか、それに気が付くまで、実は結構時間がかかった。列島の民どもは城の外に取り残されるから、家財道具を担いで山の中に逃げる。残った家は放火される、濠端の民家は取り壊されて、濠の埋め草(城壁に取付く際の架橋材)として使われるかだ。単一民族社会では、サムライと町人とが協調合作して闘う場面はないようだ。
その点、大陸では、軍民一体となって異民族侵攻や外敵に立ち向うと、まあそのように城の設計プランにも国境観同様の差異があるようだ。
城の中に住む事は、平和な時代には、不便きわまりない日常であり、ストレス源となるであろう。
ゆっくりのんびり見回すと、城内の家屋は、ほとんどが空き家か壊れ家であった。ノコギリ歯に見える屋根が続く工場タイプの建屋もあったが、長い休眠を示していた。
西門の外に現代の市街地があって、市民サービスの実質はそちらにあって、城内は観光客向けに切離されている様子が伺えた。
さて、句の意だが、、、、
商街路とは、耳慣れないコトバだ。
城の中心=正方形のへその位置に市楼なる物見台があって、その望楼の股下をくぐる大通りを指している。西門から入り南北中央線に沿って南下し東門方向に抜ける鉤の手<江戸期のお蔵のカギ型>状の道は、
歩行専用道路に指定され、両サイドは、旅宿、飯や、骨董品などを商う商店が連続している。軒を接する建物も外観規制があるらしく、立替工事中のものを何棟か見たが、いずれも古典的工法らしかった。
大陸事情に疎いワットは、金属フェンスを乗越えて、その向こうは歩行者天国と想い込み、ヘイヨウ・平遥とばかりに、異国異時代情緒に浸り、のんびり歩いていた。のだが、背後に音もなく忍び寄る何ものかの気配あり。振向くと若者がバイクに座っており、眼すらあわせないのだ。まあ、いるわいるわ。
何でも、腐る程あり余っている。音がなかったのは、電動バイクだったのだ。フェンス内の商街路通行をあの手は許されているのか?それともルールに疎いのがガキとばかりに振る舞う者どもか?まあ、来るわ来るわじゃない、忍び寄る忍者クルマくるまだった。
沖縄童謡調のワラビガミは、ヘイヨウヘイヨウと穏やかな唱い声で和み調であったことを憶い出したのであった。
今日はこれまでとします