耄想陸行録 第11稿

* 文明は  ムリ・無駄・きょうこう  バカ尽し
〔自註〕「きょうこう」は、発音表記つまり耳感応だが、意味が多様である時は、あえてそのような文字表現を選べる。
それが日本語のユニークさの一つである。世界で最も短い詩には、あえて曖昧さを狙う技巧が備わると言える。
「きょうこう」をワープロ変換するとしよう、、、
機種により変換数がばらつく、変換候補が少ない方がよいのか、それとも多い方がよいのか、果たして貴方はいずれに軍配を挙げられますか?
そのように急に振られても困る・・・・確かにそのような生き方=1機種、1メーカーしか持たない、よって比較したことがない=ワンホール・イズムなる単線単純世界観はシマグニで流行ってます。
流行る背景は明快です。
早く答えろ、ひとつでも多く解答しろ、答は予め決っている、答は1個だ。明治政変以後の官製義務教育は、そんな偏りの激しいエリート教育に徹してきました。
偏りとは、具体的には「拙速至上と考える価値観を社会的に共有する不都合」がそのひとつです。そのような学歴偏重エリートを政治リーダーや行政パーフォーマーに頂いているシマグニは、とっても深刻です。
首相が1年持たずころころ変る、そんな状態がもう20年くらい続いてます、長く居座った人が真のリーダーだったわけじゃないことは知ってますよね、駐留軍の基地に地盤があっただけでしょう。
この社会的リーダーの払底状態は、惨めさにおいて廻廊半島のホク半=Northern Coureaと変わりないかも、、、
なんせ敗戦後65年も経過して独立が未完成だ、外国の常備軍が常駐し、自国民に危害を加えてもシマグニ警察は逮捕する権限がないと言う。
それが未だ独立してないことを意味する核心部分だが、果たしてあと何年したら独立できるかと言う、将来のシナリオがまた無いと言う。
そうです、本当のエリート養成は、拙速至上教育では実現不能なんです。
さて文字変換は、拙速至上から脱却し多様複眼の悠々至高の気風を養うためにも重要と考えましょう。
IT機器の課題である過度な商業主義や工業所有権バリヤー・スルーなど、デファクト・スタンダードが孕む諸矛盾が見えてくるでしょう。
主権者・ユーザーは、大量生産のゴミ乱造にもっと異を唱えるべき、、、と思いませんか?
さてバイパス・スライスを離れメインロードに戻りましょう、
「きょうこう」をワープロ変換すると
1、凶行
2、強行
3、恐慌
とまあ、3つくらいに留めておく。
次のステップは、「きょうこう」が漢字に変わると、句全体の意味がどう3様に変るかである。
句の前後と、うまく繋がるかだ。
その前に、日本語を使う人によく見られる「癖」について触れておきたい。
一つの漢字文字が眼から入る、もしくは耳から入って脳内に一つの漢字文字が浮かび上がると、優秀な民族固有型コンピューターは、急に止まる「癖」があるのだ。答がひとつ見つかると停まるように訓練された結果そうなってしまった。
一つの文字=ひとつの意味に凝り固まる「癖」のことを「あさはかシンドローム」と言うが、国民性として定着しているから深刻だ。
その「癖」の背景は、テスト・エリート(拙速至上教育が生むワンホール・イズム。指示待ち族=命令受領オンリー単線行動ロボット病、尉官退役職業軍人症ともいう)養成主義にあるに違いない。
いよいよ本筋へ
 1、凶行とする場合の句の解釈だが、、、
「国語の癖」に陥らないよう辞書を引いた、抑えはこうだ。
人に災わいを招く行動とあるから、凶悪な殺傷犯罪から戦闘行動までであろう。
では、そのことと、文明がどう関連し?句全体の意味がどうなるのか?
むずかしそうなのでアト廻しとする
次に 2、強行とする場合の句の解釈だが、、、
ここでは広辞苑から、障害や反対を押切って強引に物事を行うとある。文明および句の意味はパス
残るは 3、恐慌とする場合の句の解釈、、、
これは経済学事典だが、長たらしく書いてあるなあ。
ワット流に要約するか?なんとリスキーな、、、、
パニックのこと、経済体制の矛盾が原因で生ずる失業、銀行破綻、企業倒産、価格暴落などの社会混乱を言う、見込操業・過剰生産などがもたらす景気の循環変動であり、赤色朝などの統制経済(官僚主動による計画経済や傾斜方式経済においてもみられるもの、資本主義経済固有の矛盾であると言い切れない)でも起り得る。
とまあ、漢字変換までは済んだ、アト廻しとした文明との関係をどうするか?
ワット流は、こうだ。文化人類学研究などにかこつけて、まず闇夜の池の廻りを一周する。
帰ってから、何か書くことにすべえ、、、、
ところで、文化と文明とは、どう違うんだろうか?
闇夜の池散策とは、研究姿勢の例えだ。
成果をはなから考えてない、土左衛門にならないで無事にかえればそれでよいのだ。文化人類学研究とは要するに発展途上にあると同事なのだ。
文化は、自然または反野生とする立場の人もいるらしい。
文明は、最も高度な状態の生活水準のこととする立場の人もいるらしい。
どちらもワットとは最も遠い立場だ。
彼等の文化・文明観は、宗教的ドグマの強い人達と重なることが多く、人間を動物の範疇に含めたがらないことが多く、文化・文明と自然とは対極にあって相容れない関係におくとする傾向が強いようだ。
ワットが支持する文化の定義は、生活様式を言う。
とても簡単だ。何を食べるか、どうやって入手するか、どう調理するか、誰と一緒に食べるかなどなど、、、研究対象は無限にあるが、テーマはやさしい。
採集・狩猟のスタイルやコメか、小麦か、キャッサバか、ポイか、など食糧生産の方式によって、社会別に異なるルールがあることを観察することだ。
研究つまり発展途上にあるフィールドワークの狙い目は、相互の差異を比較することではない。その逆で、ヴィジブルな文化現象の違いを通して人類の共通性を再確認することにある。
さて、文化と文明の差異について答えよう。
文化は時空間を区切らない、普遍的な対象領域である。
に対して、文明は、食糧生産が始まって以後の歴史時間に区切られており、時空的に狭い対象領域である。
ありていに言えば、文明は文化のローカル・スポット的一部分である。
以上がワット流で述べたいことの全てである。
筆を置くにあたり、句の意味することを纏める。
文明社会には、人類が行なう愚行のすべてが、意図して組織的に行われ、救いようがない程、徹底して行われている。
イデオロギー色の強い全体主義や独裁強制の仕組を備える恐怖政治ほど、愚行がもたらす悲惨の度合は深刻であるようだ。
もちろん、文化レベルの社会にも、愚者はいて愚行は排除できないが、集団の規模が小さくかつ限定的でしかない。
その点で愚行がもたらす悲惨の度合は軽いと言えよう。
さて、大陸きってのスーパースターと言えば、儒者孔子である。
彼の暮らした時代は、採集・狩猟の生活様式から食糧生産の様式に移行する過渡期もしくは、移行初期と考えられる、、、、つまり、文化の時代から文明への過渡期または移行終了直後と想定される。
彼が残した数多くの示唆の中に、「小国寡民」なるものがある。国が小さく民の数が少ないと理想に近づきやすいと括れそうだが、意味深長なコトバである。
筆者は、この度の旅行で、孔子廟を訪ねたが、その報告は次稿以後に取上げることとする。
さて、文明社会は、彼の示唆する方向とは正反対の「大国溢民」<たいこくいつみん>へと変化した。
多々ある愚行の中で、最悪のものは人口爆増に尽きるのではないだろうか、底辺の拡大が頂点の高さをもたらしてない事実に愚民大国=大陸の苦悩がまたあると見た。
今日はこれまでとします。