耄想陸行録 第10稿

* 突然に  ワープしちゃった?  異空間
〔自註〕大陸の旅は、突然思わぬことに出くわす。
バスやタクシーで移動しながら、街の景色を眺めているつもりが、ほとんど居眠り状態になっていることがある。老人性何とかシンドロームだ。
景色の激変に驚いたことがあった、一度きりではない。町中を僅かな距離移動しただけなのに、まるでワープしたかのようにそこだけが静まりかえっている。あの大陸特有のヒト、クルマ、文字カンバンの溢れかえりが、そこだけ無いのだ。信じられない異空間の出現だ。
街路中一番の風格ある大通りに面して、その建物がある。
一際大きく整然とした造りの大建造物、周囲に植栽が植えられており、おやと思う。
公園ではない、人の姿がほとんど見えないのだ。
建物の前には、黒塗りかな?豪華な感じの乗用車が何台も停まっている。諸事過剰、疲労困憊の土地柄で、そこはまるで別天地然としている。
建物の中央に入口がある、その上の方、かなり高いところに、赤い色の丸いマークみたいなものが掲げてある。
見たようでもある、渡航ビザに押されていた印と同じものだ。
そう気がついてから、再び建物を眺める。
何となく妙だ、この違和感はどこから来るのだろうか?そう言えば、建物も必要以上に大き過ぎ、親しみの持てない印象だ。
その広大な空間に、人影が見えないのもまた異様だ。
この作られた空間ブロックの異様感は、果たしてどこから来るのだろうか?
この奇妙さは、設計当初から狙って作り上げ、完成後も維持されている効果であるに違いない。
既視感ある光景だ。最初に浮んだのは歴史に名高い、あのアホウの語源となった壮大な宮殿「阿房宮」のこと。
始皇帝の事業とは言え、「史記」の記事にある建造物の規模があまりにも壮大なため、出鱈目なことを言う故事成語の代表的事例と思われていたが、この十数年発掘が進み、歴史記録との照合が行われ、史料の捏造性を一部見直す動きもあるらしい。
なお、先稿で触れたとおり、秦の首府があった西安では外出を控えたので、「阿房宮」についても、詳細には踏込めない。
なお、筆者のハンドルネーム「ワット・ホージィー」は、文字表記すると「輪十 呆爺」となる。
アホウは阿房とも阿呆とも書くから、あい通う。
なお、阿房の由来としては、建造物のスケール説以外に、火災炎上由来説もあるらしい。
始皇帝<在位BC246〜210年>が死去し、「阿房宮」の工事は中断され、やがて国乱<BC207年>となり、楚の項羽の軍が諸宮殿に火を放った。
未完成状態の「阿房宮」は、延々3ヶ月以上も燃え続けたと言う。その時間感覚が間の悪さの代名詞となったかもしれない。
がそれもまた、考古学により検証されることであろう。
既視感として浮んだ2つ目は、ルーマニアチャウシェスクが建造した、現存最大級の巨大建造物だ。
彼は同国初代の大統領、在職15年の間に親族と同調者のみで権力を独占した独裁者でもあった。
彼が失脚した理由は、多々あるが俗流にもっとも判りやすい解釈は、国の力や民衆の意向を無視した巨大工事の遂行にあったと言うべきであろう。1989年副首相でもあった妻とともに、大統領の肩書のまま処刑された。
ユーラシア大陸でもドナウ河以東の地域には、西欧社会のような堅固なアイデンティティー=それは岩のごとくと例えられる=がなく、淳朴な羊もしくは洪水に対して脆い砂に例えられるアイデンティティーだと言われる。
この地域以東から太平洋岸までのユーラシア大陸には、人民とか共和国とか大統領とか一見理想的なタイトルを持ちながら、名称と内実とは大きく食い違う政体がごろごろあるようだ。
権力層は私利私欲に走り、大衆をないがしろにする独裁体質で、その地位を世襲的に禅譲するか、特定マフィア団の中でプールされる。
一般化して赤色朝と呼ばれるのは、事実上王朝化しているからだ。
遠い時空の向こう、シルクロードの終着点はローマであった。その古代ローマでもデモクラシー時代はさておき、領土が拡大し周辺植民地との軋轢・緊張に備えてプロ軍人制とした皇帝時代には、世襲的王朝制となってしまった。
そのような大国溢民(たいこくいつみん、人が溢れる大国)は、理想社会に最も遠い存在であるかもしれない
〔脚注〕巨大建造物についての筆者の毒舌
1、部屋数3,000超あると言われ、世界遺産に登録された。
2、USA国防省(その平面形状からペンタゴンと呼ばれる)と1・2を争う巨大な現存建造物。
3、名称は複数ある。当初大統領官邸「ルーマニアブカレスト国民の館」としてチャウシェスク<1918〜89。享年71>政権下で着工、彼の失脚・処刑時には未完成であった。
4、世界遺産について、UNESCOは自然・文化・複合の3つに分類している。自然遺産を別にして、負符合<マイナス>の遺産が目立つ理由として下記が考えられる。
UNESCOの事業は多いが、根底に流れる思想は、戦争否定による平和の実現と言えよう。
20世紀になって、航空機が出現したことで、戦場とそれ以外の区分が消えてしまった。そのことを踏まえて構想された世界遺産の仕組は、科学万能神話からの脱却であり、人間の過去の営為に対する真摯な省察を促した点において画期的な新しい科学観の提唱であった。
世界遺産の精神は、人類が共有する非戦場の再設定であり、非戦場からの戦闘という人類の愚行を永久的に排除しようとする、再宣言である。
決して観光名所のランク付けでも、物見遊山の奨励による浪費の勧めでもない。

今日はこれまでとします