耄想陸行録 第9稿

* ヒト、クルマ  カンバン文字など  ただ溢れ
〔自註〕大陸3週間の旅から還って、4週間が経過する。時間が過ぎるとともに忘れることは多い、しかし、忘れることなく残ったものが、則ち重要なこととは、限らない。
旅のことを、よく異文化体験などとさも手際よく言い放つ器量人がいるが、針小棒大な斬り分けの感無しとしない。
洋の東西による見た眼の印象は異なるも根底に流れる人間としての共通性や動物的属性に根ざす相似なものが透けて見えるようなことがある。異空間の旅で足元を再発掘するような気がする。
さて句の意だが、大陸に溢れかえっているものを、ワット基準ワースト3ランク付けしたらこうなった。
この3つが溢れるかえる情景は、TVモニターなどで見馴れており何で今更だが、現実にその場に身を置いた者として、古臭いことであってもきちっと事実を留めておきたい。
最初に「ヒト」と記したが、定型詩の音素数の制約を踏まえてそうしただけだ、ありていに吐露すれば、個々人の”ひと”としての把握や認識では全く無い。
その場に身を置いた自分自身を含めてまさに人間が雲霞のごとく這いずり回るサマでしかない。
コトバを文字で表すことの難しさをうまく説明できないが、文字との出逢いがどのようであったろうか?少し逞しい想像をしてみた。
太古の昔、列島には文字が無かった。
コトバのみがあった長い時間軸の中で、民族の記憶として共有する先祖の冒険談は、祭りや集会の後で唱和する宴歌<うたげのうた>として、特定のファミリーなり優れた専門家なりが保存と改良・洗練の役割を果たしてきたことであろう。
その当時、所謂採集生活に基礎を置く列島のことば、”ひと”は一つの存在とみなされる生命、”独り”なる括りに相応しい個性を指し示す音声であったに違いない。
やがて、大陸からイネ栽培なる食糧革命=システマティック・イノヴェィションを携えた一団の人間が列島に移動してきて、定住した。その食糧革命には、土木工事と文字記録・文字伝達と集団労働とが不即不離のワンクローズドシステムとして組込まれていた。
採集生活の一員としての”ひと”と、食糧生産段階における文字文化集団に組込まれた部分品的”人間”とではイメージがあまりに遠過ぎて則ち同じ語彙扱いすることに異和を感ずるが、意味において重なる近接語である以上、拙速、翻訳誤謬と決めつけられない。
文字文化の伝統を持ち合わせない当時の列島人に、そこまでの精細さを求めることはできない。
さて、ワットがその中に身を置いたイナゴの塊のように騒々しい雲霞人間にもアイデンティティーはある、だがことの問題は、その質にではなく、量にある。
俗流経済学では、有り余るモノは、無価値に等しい存在として扱われる。いくらでも取替がきくからだ、まるで軍隊における初年兵の扱いのようにである。
溢れかえるほどの大量の人間は、有り余る状態と同じである。
その中に身を置いたワットもまた、ゴミ的存在価値であった。それで始まったのが、ゲイリーのささやかな暴動であった。
更に困ったことに、雲霞人間は所構わず唾を吐くのであった。他人の見てる前で「内なる宇宙から排出が許されるものは唯一、音を伴わない吐息のみである」とするのがワット流である。雲霞人間界には、そのような堅苦しいルールのようなものは存在せず、フリーに拡散放置する習わし?があるのか、あの目まぐるしく動き回るイナゴ群衆の中、オリンピック級の技を駆使して撒き散らすメダリストが大勢いた。
なんと、悪ルには更ラ悪ルが居るものだ。鼻の片側を器用に抑えて、口を経由せずにダイレクトに放り投げる技ものがあると言う。
それを戒めるスローガン、文字カンバンをあちこちで見かけた。標語が掲げられるのは、実行が伴わないことの証しでもある。上に政策しからば下に対策なる文字カンバンは捜してみたが、予想どおり見つからなかった。
”人間”は、また熱源でもある。じっとしていても、恒温動物は、半径1メートルのローカル気温を間違いなく3度上昇させる。夏、これほどうざいものはない。
次に、クルマ、、、、
はい、あらためて列島人に読ませたいと想うことだけ
をここに書きます。
大陸には、歩道は無い。
車道と建物との間にあって、縁石で囲まれ、車道より一際高く、敷石で舗装され、歩行機能性に重点を置いた、あの連なり。
確かに、列島では歩道と呼ばれるアレだ、大陸ではそこにクルマが溢れるよう放置されている。クルマとクルマの隙間を縫って”人間”が、歩けないこともない
が、、、そんなもん歩道と呼ばんでしょ。
何故そうなるかをワット流に考えた、この推定に自信はまったく無いので、そのつもりで、、、、
彼の地には、”人間”も”クルマ”も、ともに溢れかえっている。だが、その絶対数において”クルマ”の方が少ないから、相対的価値において少ない”クルマ”に分がよい。それにクルマは高価だ。よって、クルマ優先社会と言う結論、ワット流には「余り物に価値無し」、人間軽視・クルマ優先でよしとなる、、、くそっ。
クルマには、招かざる取巻きが、必ず付きまとう。
燃料浪費、騒音、排気ガス悪臭、過密渋滞、ヒートアイランド都心部異常高温帯の常態化現象などなど、
偏西風の風下に当る列島の黄砂被害は、更なる劣悪化が免れないことであろう。
飛来黄砂は、大国縁辺小国が被る害悪の一つに当る。
所謂クルマ公害は、列島が40〜30年前から味わっている苦悩だが、彼等は性懲りもなく繰返し、これから更にその度を増すことになりそうだ。
他方で高速道路は、更なる建設、延長工事が盛ん。最遠地方や最深地域から大都市に憧れ、現代の消費水準を求めて、漂流する都市難民=都市戸籍を持たない根無し草の大集団が、ネズミ算式に大移動・急膨張するに違いない。赤色朝の太祖マオドンは、農地解放は行ったが、農民解放は行わなかった。高速道路なる本来的に必要性やインフラ性が疑わしい国土改造に手を染めたことが、寝た子を起こすような社会混乱を招く懸念は、もう始まってしまっていると言うべきであろう。
句の意としての最後、カンバン文字の氾濫状態、これほど疲れるものはない。
例えの1はこうだ。
バックグラウンドミュウジックに台詞なしの演歌が流れてくるようなもの、それに粗忽者の鼻歌がかすかにかさなったら、場のムードはぶちこわしだ。
例えの2は疲れを忘れ癒されたケース。
その昔、ある九州の空港に降りたった、霧が出やすいとかで有名な空港だが、中核都市に向う道路からの景観がとても素晴らしい、好印象の背景に実は、行政による看板規制の措置すなわち景観保全の工夫があったのだ。
大陸の識字率は高いらしいが、赤色朝によるスローガンやキャンペーンの類いが、どれほど客観性を備えているか、イデオロギーが満ち満ちているかなど、現地のコトバを一切解せない筆者には、全く論調するだけの見識も根拠もないから、何も述べられない。
だが、景色なり都市景観として、感じたことを述べる分には問題なかろう、一言全くもって疲れる、それだけだ。
今日はこれまでとします。