閑人耄語録ーNo.56

* 遠花火  おおずれもよし  我が好み
〔自註〕 夏休み、八月最初の土曜日は、花火開催の特異日のようだ。あちこちで、パーッ・ドーンを眼で耳で。
思い出にある高度成長期は、盛んであった。夜店が通りに並び、アセチレンガスの光の中を、浴衣姿の母か姉かに手を引かれ、子供達が闊歩する。
それは、平和を象徴する光景、それ以外の何ものでもない。鎮魂の八月を象徴するものは、花火と朝顔の二つに尽きるのではないだろうか?
安定経済なる低成長期に入ると、企業協賛金が集まりにくいなどとの理由で休止するケースもあったが、翌年には何故か復活するのであった。これまた、この国の不思議な出来事の一つである。
さて、句の意は、子達も育ち上がり、元の二人きりの暮らしに戻った老年者の花火風情である。着飾ることも出かけることもなく、家の前の稲穂越しに、遠くにポカーンと挙る光の輪を眺める、意識は耳に移る、忘れる頃に、かすかにドーンとか、パラパラとか、、、、
時々、届かなかったり、聞き落としたり。タイミングを計り間違えて、消えかけの薄暗い大輪しか見えなかったりだ。
この年齢になると、その「おおずれ」感が、実に楽しい。
遠路はるばる、川縁まで出かけようとも思わない。
どこの川が打揚げ会場だろうか?夜目遠目ではおぼつかない。
川縁の打揚げ会場は、陽は落ちたと言え、炎天下の名残が消えない暑さの中だ。花火師達が縁の下ならぬ炎の下で、まさに花見る時は陰の人を演じていることであろう。
そのずれ加減もまた年輪だろうか、夏のおもしろさだ