耄想陸行録ーNo.3

* 朝、みどり  青空、白雲  さわやかさ
〔自註〕モンスーン大陸の旅で考えさせられたことは、数々ある。遠景と回想の中にあるものは、順次取上げることにしたい。
この句で、筆者があって欲しいとの想いに対して、大陸が応えてくれなかったものを、羅列してみた。
僅か3度の、3週間に満たない滞在で、全てを語るべきではないが、個人的欲求は、切実かつ妥協の余地が乏しい、まさにその点において、体験的知識が導くものは大きい。
IT革命が進行しつつある現代には、BS受信料を負担せずとも、手軽に行ける「お茶の間海外旅行」なるものがあって、ある意味、効率よく網羅的に現地情報が入手できる。省エネ・汗無しの旅として、エコロジーにも叶うIT時代の賢いニューライフであるかもしれない。
ただ、IT時代の根源にある戒めを、常に忘れてはならない。イノヴェーションの進化が、一貫して操作を容易にする方向でなされて来たことと、表裏一体である。
ここで最近のメディア報道を2件ほど紹介したい。
最初の方は、旅を始めた頃だから6月の末頃、機中で読んだ英字新聞の記事だ。
ネット検索の最大手A社と大陸行政当局との間でフィルタリングについて見解の対立があるらしく、昨年来継続的に報道されて来ていることの続報であった。
2件目の方はこの2、3日内だが、国内最有力紙のコラム欄<筆者は1面社説と詠んでいる>にあった記事だ。
そのA社とネット情報サービス国内最大手のB社とが提携を始めると言う。この両社の検索サービスにおける合算シェアは9割だと言う。
以上が、紹介らしからぬ報道記事の概略である。
進行途上にあるIT革命のことを、さも確定的に決めつけて論評することには、いささか抵抗がある。
それは例えだが、「その昔生きいたかよ、観て来たように講談師」のそしりを免れないからだ。
しかし他方、デファクトスタンダードを楯にブラックボックスを当然の事とばかりに、システムを開示しようとしない高圧的姿勢には閉口するし、腹も立つ。
稀に提供される説明書も、カタカナ文字が羅列されるばかりで、その意味なり定義なり、機能する領域を限定的に明示しようとしない、その高圧的官僚姿勢に驚く。
非科学的ナポレオン体質とでも言おう、実に困ったものだ。
前述したフィルタリングも、筆者自身意味が判って使ってはいない。
想像だが、仮に「天安門事件」と検索入力した場合でも、検索回答が著しく遅いとか、ヒットの中身が偏っているとか、その他の一般検索に比べると、その差が際立つと言う程度の噂しか知らない。
このことから導きだせることは、情報システムに内在する危険性である。
それは、背景が判らないまま、一部の勢力によって情報操作つまり検索サービスによる回答を意図的に歪めたり、特定の立場の見解しかヒットしないように操作されることで、当事者が無認識のまま一方の方向に世論が収斂してゆく懸念があることになる。このことは、コンピューターが登場して約60年、未だにブラックボックスであると言う背景から来ている。ここで言うブラックボックスとは、コンピューターの持主が、自らの意思で操作しているように見えていながら、実際の仕事はほぼ100パーセント提供されたソフトウエアが処理している、その事実に潜む危険性の事である。
情報産業が揺籃期にあって、海のものとも山のものとも前途が知れない時代は、軽視するか無視することで、ある意味よかった。
だが今日、ツールとして使用するマザーマシンとしてのコンピューターが、安価になり大量に普及する社会が実現した。
ガリバーになってしまった情報産業だが、今日でもその実態はよく判らないままだから、その本質を解明しないまま放任され、手が付けられないまま巨大化した事実がある。
コンピューターを起動・管理させるIT言語が、未だに発展途上の言語であって、しかもロシア語やギリシャ語のような閉鎖的言語世界であることや、その言語に長けるシステムエンジニアなどが、特殊社会に閉じこもる性格であることが、コンピューターのブラックボックス化を一層助長しているとも言える。
ただ、昔からメディアボックスは、閉鎖的で非科学的でナポレオンによる独占支配的であるとの指摘は、終始一貫なされて来ている。
有史以来の人為的ブラックボックスメディアが、今日のIT技術ブラックボックス化へと進むことは、むしろ開示度が増す点で、好ましい傾向であるとする見解すらあるらしい。
列島文化史的には、ヨコ文字をタテ文字に翻訳する過程で、所謂フィルタリングは日常茶飯的に行われ、今も現に行われている。行政による教科書検定体制に対して疑問の声がささやかれもしない没個性を妥当とする社会認識に、この社会の内なる平和と安定が続く秘訣があるのかもしれない。
次なるIT世界では、情報検索に引っかからないものは、実在を否定され=存在を抹消される、であろうとの見解がある。
それは、世の中の現実=リアルと、コンピューターによって検索サービスされる情報処理上の事実=ヴァーチャルとが、乖離していることを意味するが、果たして、検索サービスの手軽で迅速な応答処理に慣れてしまったIT世界の住人は、自分が操作されていることを積極的に認めようとするだろうか?
次に、消極的であれ仮に認めた場合でも、リアルとヴァーチャルとの乖離を常に念頭に置いて、その落差を埋めるべく自己努力に拠る情報発掘なり、情報検証なり、の積極行動に進むであろうか?
 さて、進行しつつあるIT革命の話は措くとして、旅の狙いであった文化視察の話題に戻るとしよう。
ユーラシア大陸東部の文化に迫るにあたって、言語の壁を予め整理しておく必要がある。
中華文化圏は、漢字を基礎に置く言語圏でもあるが、今日、中国と廻廊半島と列島の3地域または4カ国は、話し言葉としての共振性はさておいて、表示記号として共通の漢字文字を使用するゾーンであると粗っぽく括っておきたい。
短い字数でうまく要約できないが、上述した3地域もしくは4カ国に加えて、更に3地域または3カ国を踏まえておく。
1は、歴史的存在でしかないが西夏文字<せいかもじ>のことである。
中央砂漠にあった、11世紀から約200年存在して消えた王朝が、西夏だ。
2は、ヴェトナムである。現代においては、漢字表記はほぼ放棄されており、その点では廻廊半島のハングル表記と同じ扱いとなろう。
3は、台湾である。一国三制度と呼ぶ立場と、独立したクニとして扱う立場とがあって、扱いが微妙だ。
島内においても、先住者と後来者とでは異なる文化を保持しているようである。人口マジョリティー・ウィナーがオールゲットする現実的切捨論に立てば、話し言葉においては黄河流域に最も接近しており、表記文字も古体字と簡体字との差でしかない。
コトバにおける発音と文字との分裂なり整合なりが、この6地域または7カ国において、微妙にゆらぎがあるので、安易に中華文化圏などと括ってよいかどうかを決めかねている。
もちろん、主眼が言語にはないのだから、気楽ではあるが、言語を抜きにして直ちに文化を論じ得ないこともまた真実である。
さはさりながら、漢字文化とIT革命とが、これからもどのような折合いをつけてゆくのであろうか?
興味あるコンテンポラリーな関心事である。
さて、最後に再び、句に戻ろう。
インチョン空港付近に1泊3日(復路のみ1泊)滞在した。この廻廊半島には、嬉しいことに朝のさわやかさも、山の緑も視野の中にあった。とりわけインチョン空港施設からは、四方に小高い山並みすら遠望された。おそらく多島海の中に造られた空港なのであろう。
筆者に無コストの喜びをもたらす「さわやか4要素」は、7月の大陸には無かった。
大陸は、厳密には3度目の訪問だ、がかつての2度は(=17年前の昔)、そのようなことに関心を示し得ない業務上の短期出張であって、個別具体的な範囲の中で現地の駐在日本人に対面しただけであった。
訪問地域も長江ゾーン、珠江ゾーンであり、この度の黄河ゾーンとは、異質と言えた。
今日はこれまでとします