耄想陸行録ーNo.2

* まずシャワー  次にスイカで  救われる
〔自註〕旅を終えて還って来た時の感懐として、第一に浮んだものを定型の中に押込んだ。旅に出る時の動機なるものが、何であったか?そんなものは無かったように思うが、、、憶い出せば、答に窮してコトバにしたことがあった。土用の丑の日に、東京の鰻屋で同窓会をやるから出て来いとの、誘いがあった。外遊洋行の日程に接近しており、体力回復期に当るので、欠席としたが、重ねて何の旅か?との、ご下問であった。会合の幹事は、参加メンバーに欠席理由を披露する責務を担うものらしい。土まみれの百姓は、報われることが殆ど全く無いから、そのような時でも、ホンネを言うことは少ない。文化人類学のフィールドワーキングであると答え、目的地は答えなかったようだ。
瓢箪から出たコマのようなこの言い逃れは、旅の動機とは異なる、相当いい加減な答のはずであった。
だが、その時の苦し紛れの答が、結果的にこの旅を最も適確に括っていた。
ユーラシア大陸の東部もまた、列島と同じ気候帯であるから、7月は、旅に相応しい時季ではないのであった、一日何をしないでただ生きているだけでも救いを必要とした。何らかの救いのようなものがないと耐えられなかった。移動に備えての体力回復をのみ願って24時間絶食惰眠の日もあった。ホテルとは名ばかりの商人宿に過ごした数日、生きる証しは3度の食事に代えてのシャワーであったり、外食に出た、旅の同行者が買い求めて帰ったスイカにありつくことであった。
イカは、水瓜とも西瓜とも書く。列島の西には中国がある、中国とはどの空間までを指すのか未だに決めかねるが、キュウリ<胡瓜>の由来文字が示すように、スイカもキュウリも更に中国の西にあたる『胡』の地から伝来した植物であろう。
原産地に近いからこそ、味わいが一層好ましかった。商人宿にも、鉄道駅近くに立地する八百屋にも、冷蔵庫の備えなどある筈も無かった。だがしかし、列島で食べる冷たいスイカを凌ぐ味わいがあった。生温いスイカの中に原産地に繋がる味わいを感じられたことで、旅を再開し生きて還ることが出来たような気がする。
3週間連続の旅は、国内外を通じて始めての体験だが、この時季は旅に相応しくない。特にモンスーン気候帯においてこそ、そう言える。旱魃、洪水、台風の報道が溢れていた。
インチョンの空港と小松空港で、小中学校の夏休みが始まり、列島を出て目的地に向う、大量の出国邦人とすれ違った。
メジャーな群衆と逆ベクトルの移動をする少数の旅行者に属する選択をしたことで、これまで見ようとしなかったものを初めて見たような気がする。

搭乗機材の変更が出来ない格安航空券があることが、その周辺を証明しているとも言えよう。
筆者と同じパターンで海外に出る列島邦人は、概ね3種類の人間であるようだ。年金生活者か、貧乏学生か、渡航先を明らかにしない文化人類学者くらいのものだ。
今日はこれまでとします。