閑人耄語録ーNo.54&55

*第54句 とがし丘 ウラシマダロウ 仰ぎ見る

&第55句 倶利伽藍を 六十路を超えて またも越ゆ

〔自註〕 富樫丘陵は、金沢市から南の方に見える小高い山並みであり、倶利伽藍峠もまた、金沢市からごく近い、ともに北陸の地名である。
前者は、一向一揆による守護不在の舞台となり、後者は、朝日将軍木曾義仲が、牛を使って平家軍を潰走させ鎌倉幕府開設の契機となった歴史的故地に当る。
句の意はこうだ。北陸を出てから31年も経って、再び「とがしの丘」を仰ぎ見ることになった昨今を詩にしてみたものである。
倶利伽藍峠の方は、40年前に単身で、始めて北陸に暮らすべく、鉄路でこの山塊の中腹を越えたが、六十路<むそじ、粗シズティー>を過ぎて再び北陸に暮らすべく、こ度はマイカーでこの峠の裾を走る高速道路で越えたのである。
あえて変化を捜せば、最初に峠を越えた時に高速道は未だなかったし、20台半ば野球の真似事を「とがしの丘」を見上げる麓の里原でやっていた頃は、山腹にこれほどの竹はなかった。今は、ざっと眼の子で裾から始まって約半分くらいが竹色である。
遠望するにモウソウチクであろうか?長い間、北陸と禅の古い縁から、入唐僧が伝来したものであろうと、想い込んでいた。
因みに、曹洞宗臨済宗ともその本山は、越前と能登とに分かれて存在しており、あながち的外れであるまいと思っていたが、昨日読書中に、最近の環境破壊に因む外来植物種としては、その百姓読みの正しからざるを知った。
天文元年<単純換算1730>に第21代島津家当主第4代薩摩藩島津吉貴<しまづよしたか>が命じて琉球経由にて招来したものだと言う。
なお念のため、出典を掲げる・・・22頁

日本らしい自然と多様性――身近な環境から考える (岩波ジュニア新書)

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