第53句 オタクサは  涙の色ぞ  つゆに咲く


〔自註〕 オタクサは、梅雨時に咲くアジサイのことである。命名者は、シーボルト<1796〜1866。P.F.von Siebold>と言われる。
ドイツの医学者、博物学者として著書に「日本」「日本動物志」「日本植物志」がある。1823年にはオランダ商館付の医師として来日、1859年再来日(この時はオランダ商事会社顧問)した。長崎に鳴滝塾を開き西洋医学の普及と診療を行った、娘いね<1827〜1903。最初の西洋流女医、楠本伊篤と改名し宇和島伊達藩医、明治になって宮内省御用掛の産科医>の母たき<滝とも書く、おたきさん>に因んでオタクサと名付けたと言われる。
彼が日本で収集し持帰った植物の種子の中には、オタクサも含まれていたであろうし、後世その後継種子が再度日本に持込まれたことであろう。
あじさいは、万葉集(巻4No.773。巻20No.4448)にも出現する日本原産種(ユキノシタ科)だが、日頃花屋の店頭で眼にするアジサイは、中国経由でヨーロッパに渡り、彼の地で改良されたセイヨウアジサイである可能性が高い。因みに漢字で紫陽花と当てるものの、中国でそれに当る花はライラックであるとか?
ガクアジサイが、庭に咲いている。日陰でもよく咲く、花弁の色は青い方が好みだが、所謂リトマス性のため土壌のアルカリ性を反映してであろう、やや紅色が勝るようだ、、、よく見ると小さい方の花弁が淡い黄色から薄い緑色までカラフルなのがよい。
シーボルトは、日本をヨーロッパに紹介した先駆者の一人だが、中でもドイツ、オーストリア、オランダと日本との間の交流における彼が残した人脈は豊富と言わざるを得ない。個々に取上げる余裕がないので、キィーワードを掲げる。
二宮敬作〔愛媛県保内町生まれ、宇和島伊達家藩医蘭学者。いねを養育した。1804-62〕
川原慶賀〔長崎生まれ、いね母子を描いた出島出入指定の町絵師。かわはらけいが1786-?〕
高橋景保幕臣、幕府天文方初代の父至時<伊能忠敬の師>の長男に生まれ、継いで天文方。伊能忠敬の全国測量事業の事実上の後援者。1785-1829<獄中死>新訂万国全図を制作〕
・・・以上3名がシーボルト事件に連座した。
大村益次郎〔長州出身、我国の近代軍制を創設。いねに蘭学を指導した。1825-69〕
高野長英〔水沢伊達藩家臣、蘭医・蘭学者鳴滝塾塾頭、蛮社の獄にて服役中に脱獄した幕政批判に立つ英才。1804-50〕
なお、以下の2件は蛇足
1=1996年シーボルト生誕200年を期して国内縁りの地で記念展示会が行われたが、その資料によると飛行船(1900年初飛行、1929年世界一周の途上に来日した)を開発したツェッペリン伯爵は、シーボルトの末裔に当る(シーボルト家はドイツの名門医家だが失われた、なお、西欧には日本のような両貰い養子に拠る家名存続制は無いらしい)
2=シーボルトの来日に先立つこと約50年の1775年オランダ商館医として来日したツンベルク<1743-1828。C.P.Thunberg>は、スウェーデンの医師、博物学者として著書に「日本植物志」「日本動物志」があるなど、日本をヨーロッパに紹介した先駆者の一人としてシーボルトとほぼ重なる観がある。
この二人は、ともにオランダ人ではないが、西欧に唯一開かれた窓であるオランダのツテを利用して日本に来た。医師なる職業は、海外渡航に適した特殊技能であるらしい。
最遠地・極東の日本に来ることは、当時のヨーロッパ人にとっては、今日の宇宙旅行とも言えるほどの人気があったようだ。