KankyoーNo.22

*プラスチックを考えるの続編ー第22稿
前稿では、プラスチック=化学合成素材とは何ぞや?なる課題を設定し、結末に至らないまま中断した。
本稿は、その続編である。
プラスチックは、種類豊富、栄枯盛衰が煩雑、誕生をめぐる暗い過去などなど、そして、地球の生きとし生けるものに害悪な苦しみと悲しみをもたらすおぞましいものと述べて来た。
読者の一部には、初耳と思われる方や、大袈裟な悪もの扱いだとおっしゃる方もおられよう。
だが、杉並区の住人の多くが賛同し、行動することで、勝取ったプラ製買物袋無償配布廃絶キャンペーンが成果を挙げた根底には、大気汚染防止や気候変動阻止に加えて生物多様性の維持に対する願いがあったからだと考える。
プラスチックの原料は、近過去と近未来を除く過去100年まるまる石油であった。そのことがプラスチックにまつわる暗さの主たる理由でもある。
石油は、軍事上最重要な物資つまり戦略物資である。石油が権力の支配下に置かれることは、則ちそれに係わる情報が秘密のヴェールを纏い、管理統制品目として扱われることだ。
経済は、権力が介在し、管理統制されると一挙に歪むものである。
では、プラスチックが、石油を原料としなくなったら、どう変るだろうか?
事実プラスチックは、近過去と近未来において、石油原料からの化学合成をやめて植物由来の生物的生成に変えることが出来るのである。
ただ、それは製法だけのことであって、コスト面や競争原理から、必ずしも望ましい方向に向かっていない、否、現実経済としては、全く芳しくないと言うべきだ。
まさに、その点において、国も国民も無策、無思慮とそしられてよい。
21世紀は生物科学の時代と言われる、原料の多様化や製造技術の公開が進み、脱石油・脱権力による経済の人間化・民主化が拡大することが望まれる状況だ。
さらに情報革命の深化による情報の公開と相まって、権力による情報隠蔽、経済支配が後退するであろう。
だが他方で、プラスチックには、資本主義経済の歪みを象徴するベーシックキィー・テクノロジーと言う側面もある。
現代の基幹素材たるプラスチックには、後述する根本的疾患が内在する。
そしてその疾患は、則ちそれを造り出した人間の欠陥でもある、
後述するように、海洋漂流物は太古の昔から存在したであろうが、いつまでも消えないプラスチック残骸の問題は、この100年プラスチック製造開始以後の事だ。
プラスチックのような悪魔性素材を造るようになったのは、人間性の問題と言うよりも、この250年採用して来た経済社会の欠陥性にあるのだ。
ここに、思い浮かぶ疾患、欠陥を列挙する。
1、 製法が、十分に解明されてない
2、 生成物の科学的解明が、十分でない
3、 造りっ放しで売られた、
   どう使われ、廃棄されるとどうなるかを全く考えてない・・・先稿で述べた「動脈・静脈産業」に通ずること
4、 造るべきか否かを全く考慮しなかった、
   造れるから造り、出来たものをカネに替えるべく使ってしまった・・・・先稿で述べた「核爆弾製造」と同じ発想である
上記4つの項目は、相互に関連しあっているが、一言で、非人間的プロセスが造り出した悪魔の新素材と言った方がぴったりする。
畑から掘出され、用水を漂い、今のところどうしようもないプラスチック残骸をどうしたらよいだろうか?
製造、使用、国内持込みを禁止している国があると聞く、ヒマラヤ山系にあるそうだ。このシャングリラが、海に面してないことを考えれば、その提唱者たるネイション・リーダーの先見性・洞察性に驚ろく。
日本の海岸は、簡体漢字やハングル文字の漂着物で溢れ実に見苦しい。昨今の原油流出だけが海洋汚染ではないのだ。
海洋性漂着物は、最後の氷河期が終わってから継続して存在するが、プラスチック残骸性の漂着物、このいつまで経っても消えない厄介ものの出現は、この100年のことである、実に困った消えない悪魔だ。
小指程度の小さいプラスチック残骸は、海岸にあっても海表面にあっても、予想外の悪魔振りを発揮する。
海鳥が餌と思って呑込む、親鳥が子に与える。
もちろん、悪魔物質であるプラスチック残骸は、生物の消化器で消化される事は無い。結末は悲惨だ、呑込んだ生き物が死ぬのである、耐えられないほど悲しい。
ここで、もう一度先ほど列挙した4つの疾患・欠陥を眺めてもらいたい、5つ目や6つ目がきっとある筈だ、見つかったら筆者に知らせてもらいたい。
そして化学者の方に、胃の中で消化されるプラスチックを発明してもらいたい、その発明者にノーヴェル賞を差上げるべく微力を尽くしたいものだ。
消化されて栄養にならなくともよい、、、、
太平洋は、ハワイ島北米大陸西岸ヴァンクーバーとの間の宏大な海面上に、膨大な量の廃棄プラスチックが意図せず?集積し、漂流していると言う。
永久に消えないと思えるこの悪魔物質は、さえぎるものの無い大海の上で、来る日も来る日も太陽の光に照らされ続ける。
俗説だが、海洋はすべてのバッファーであり、太陽エネルギーはあらゆるものを破壊し、そして水が溶かさないものはないという。
北太平洋上に、漂流集積された膨大プラスチックの残骸は、紫外線を浴びて少しづつ形が小さくなりゆっくりと海中に没し、海底に堆積するのだと言う。
その昔、平家物語の冒頭にあった名吟「諸行無常」は、この自然界の摂理を説いているようでもある。
問題は、海没までの時間が長過ぎることにある、トリの生命が失われることは、則ち生物多様性の破壊である。
近過去に生分解性プラスチックが発明されたが、現実経済における普及と言う点では、全く芳しくない。これもまた、行政府や人類(筆者を含む)の無策、無行動の結果であって、おおいにそしられてよい。
願わくば、海水に触れたら半日程度で分解するように改質するか、さもなくば、プラスチック製造メーカーに全量回収を義務づけるなどの立法措置を講ずるべきだ。
この提案?について、カロザースとシュタウディンガー
は、どう反応するだろうか?
高分子化学はこの2人によって、そのほとんどが成し遂げられてしまった。合成繊維、合成ゴム、合成樹脂と区分して呼んだとしても、形状が線か面か伸縮性に富むか否かの僅かな差異でしかない。
そのいずれもが、彼等が活躍した1930年代に必要性が生じた新素材である、軽くて、丈夫で、生産地が偏在しないことを願って造り出された。
その主な用途は、パラシュートであり、タイヤだ。革新的兵器であった軍用機、軍用トラックの増産に伴う付属品として、それまでの絹や天然ゴム(いずれもアジアの特産物だ)に代わる新素材として、これ等の高分子化合物が、戦争を準備する某大国にとって必要だったのだ。
プラスチックの持つ疾患、その悪魔性については概ね述べ終わった。
それを造り出した人の悪業を述べて終わりとしたい。 
以下にそのことを述べるが、その前段として、まず時間軸を250年ほど巻戻す必要がある。
未知の新しい素材を造り出すことは、この250年における世界的な流行であった。
それは、先稿でも取上げたが、水俣病渡良瀬川上流の銅山開発を強引に押し進めた時代が含まれる。
愚かな人類が、競争原理と緊張抗争とに邁進した、暗くてクレイジーな最も愚行が行われた250年である。
この250年は、戦争をする人とモノを造る人とが友達であった、これは今日からでも即刻やめるべきだ。
人を殺す集団を税金で養い、使う武器をまた税金で作らせて与えること、この組合わせは人間が創った仕組だから、その気になれば改めることは出来る、その単純な結論を忘れないでもらいたい。
水俣病渡良瀬川の公害を教訓として学んだ人類は、同じ過ちを二度はしない筈だ。
世界遺産のうちの文化遺産のほとんどは、記憶さるべき「負の遺産」に該当する。UNESCOの精神は、世界から戦争を消し去り、平和をもたらすことにあり、実現のため世界遺産システムが構築された。
過去の人類の過ちを記憶・保存するためであれば、水俣湾や渡良瀬川世界遺産たりえる、もう一度言おう、UNESCOの精神は、観光地をランク付けすることにはないと。
もう一度言う。戦争集団と武器製造集団とを国民が納めた税金で賄うことをどうするかは、国民の意思で決められると、、、、たしかに高度に困難であると思うが、その気になれば改めることは出来る。
先稿でも述べたとおり、250年前と同じ社会をこれから実現することだ、これは250年前に戻ることを決して意味しない。
では、述べよう、250年前とは、1756〜63年に起った七年戦争前夜を指す。戦場は新旧両大陸で、それぞれ相手を異にして闘われた。つかの間におけるとりあえずの勝利者は、新大陸で英、旧大陸プロイセンであった。敗者の仏は、新大陸の権益を失うことで産業革命の敗者となる将来が決り、敗者オーストリアは、ハプスブルク家の没落暗転が早まることとなった。
プロイセンは、やがてドイツ国の統一支配者になり、英に継ぐ産業革命の覇者に転じるきっかけをこのとき掴んだ。
要約すると、英・独が休戦協定で掴んだ戦果は小さかった。にもかかわらず、獲得した「植民地」と言う市場は、将来に向けて実に大きかった。自国の生産物を排他的に売ることが約束されたことが、世界史の転換点となった。その点で、後世に向けて意味の大きい戦争であった。
人類史を観望すると、この戦争の前夜まで概ねものづくりが行われて来たが、この戦争以後はモノ造りに変ってしまった。
ものづくりは、単純に言えば、必要なものを求めに応じて作る、これを実需原則とも、注文生産制とも言う。
他方のモノ造りは、これも単純に言えば、金儲けのために造るから、商品経済と言う。仮想需要原則と言えるかも?見込生産つまり楽観生産制とも言う。造り過ぎとモノ余りは同根異語だが、経済恐慌とは、本来不要に近いモノである商品生産をシステム化し、緊張抗争を当然のごとく前提として折り込み、押込み押付け販売すること<マーケティングとも言う>から始まったのだ。
ドイツが2番手の産業大国として、イギリスを追い落とすことに最も貢献したのは、19世紀初め頃ドイツに始まった近代化学工業であった。その後半期における象徴的存在の商品素材が、プラスチックである。
そうだプラスチックは、商品経済なる大量生産システムでのみ活躍する、本来的には、限りなく不要に近いものかも?
プラスチックの良さは、安く、どんな形にでもたやすく変ること、その便利さにあるのだ、大量生産システムにこそ必要だが、その拙速性が果たしていつまで価値を持ち続けることであろうか?おおいに短命なのではないだろうか