KankyoーNo.21

*プラスチック問題を考えるー第21稿
身の廻りの不都合を考えるシリーズの初稿には、実はプラスチックは掲げられてなかった、執筆開始から半年の間に追加されることとなった。
背景は生活場面にある。
自活のための自家消費農業を始めて、2、3年が経過するが、土中から掘出されて顔を出すプラスチックの残骸に出逢うと、真剣に落ち込む。
まだある、時に思い立って周囲を散歩する。歩道の側を音を立てて流れる農業用水のプラスチックを見かける。
滝壺に浮いたまま日夜を問わず、廻り続けるプラスチックの残骸、見下ろすといつもある、いつまでも無くならないのだ。
いつまでも無くならないものは、それだけで罪悪だ、と筆者は思う。
これらの意図せぬ出逢いは腹立ちを招く。
除去しないことには、その腹立ちは半永久的に続く。実際問題、除去は不可能である。
畑には、ある日またどこかから、捨てられ風に乗って運ばれて来た残骸プラスチックが、土の上に居座っている。
もちろん用水の滝壺にたやすく手は届かない、部外者が思いつきで関与してはならない土地の慣行があるらしい。
そして、腹立ちは収まることなく、遂にいつか悲しみに変わる。
いつまでも無くならないプラスチックゴミが、滝壺に溢れ浮んでいる、それ等は洗剤容器だったり、手まりやサッカーボールや、断熱スチロールの残骸なのだが、いずれも人間が迂闊にも造り出した物のなれの果てだ。そのままでは、元の姿に戻ることも、別の形に変って有用物となる道からも取り残されている。
それはゴミだからではない、プラスチックゴミだからである。
単なるゴミだったら地球の摂理に則っているから、あらゆるものが循環するように、放置されても人が知らぬ間に消えて行く。眼に見えない微生物がちゃんと役割を果たし、循環の輪に載せてくれるのだ、それがこの地球の摂理である。
プラスチックゴミを見て感ずる腹立ちも、やがて訪れる悲しみも、そのよって来たる所は、プラスチックなるものの罪悪から生ずる。
自然界の摂理に反するものを、安易に造り出した人間の罪業を想う悲しみとも言えよう。
ついこの間まで、スーパーで買い物をすると、ぺらぺらの収納袋を無償で貰ったものだ。最近地域によってだが有償化され、買物袋を持参する主婦が普通になった。実は、これはマニラに習った、気候変動に備えての深謀遠慮なのかもしれない?、、、
フィリッピンでは、街の中に捨てられたビニール袋が、下水の溝に絡んでスコールを突発的な洪水に変えるため、時々狭域騒動のタネとなるらしいからである。
深慮はさておき、買物袋持参の運動は、杉並区から始まったと記憶する。この運動の主な狙いは、石油の削減が気候変動対策に直結していることを広く知らせる効用もあった。
毎日買物行動を採る主婦は、多いであろうから、たかが買物袋だが、スーパーから各家庭までの僅かな移動の際の利便のため、つまりは捨てられる運命の石油系製品を浪費することは、言葉どおりの浪費そのものだ。
買物袋携行の成果を見ると、期待が膨らむ。次なる見直しキャンペーンとして、スーパーで見かける例の商品トレイを新たなターゲットにしてはどうだろうか?
商品トレイは、断熱性に富む素材による受け皿と上面を覆う透明カバーとで商品をくるむのだが、みてくれか厚化粧の類いでしかなく、しかもゴミ収集の主役を担っているではないか?
水産物などは、スーパーの陳列棚の裏にあるバックヤードで身繕い加工されている。魚介類は、特有の匂い、磯の香か生臭さかを、商品トレイによって消されて?からショーケースに並べられる。
この過剰包装が、意味するものは何だろうか?
クニの外では、コメ食と海産物の組合わせによる食事スタイルが「すしバー」として、人気上昇中と聞く。
発祥の地であるニッポンで、海のものが毛嫌いされ、まな板や包丁を持たない家庭が増えているのだとか、、
四方が海に囲まれた日本列島に備わる本来の魅力が、現代の消費者から忘れられ、疎まれているようだ。
しかも過剰包装の代表が肴屋であり、コスト的に追いつめられているのもまた肴屋だと言う。
根菜類のようにみてくれ過剰包装なしの、せいぜい紙くるみ程度で魚介類が堂々と売れて行くようになってもらいたいものだ。
杉並区の皆さん次のステップをどうお考えですか?
買物袋見直し成功の次は、商品トレイでもっての世直しは如何?
更なる「杉並リーダーシップ」に期待してますよ。
そうそう過剰包装も浪費の常態化も、行過ぎた経済のどん詰まり現象であると思ってます。
踊らされる消費者は、気がつかないうちに、そうすることが当たり前だと想い込まされる。
身の廻りに、そんな例は溢れてますよ。例えば、冠婚葬祭の黒服、ヴァレンタインディ、クリスマスケーキ、恵方巻、父の日、母の日などなど、、、、
そうしないと、豊かな文化生活から取り残されると懸念してませんか?
ボスの日に皆がボスに贈り物をするのに、自分だけしないと、出世できないかもとか、、、
果たしてそうでしょうか?
この国固有の慣行として何年遡ることでしょうか?
そう思わせて、売上に結びつけることが、物売りの悪智慧なんだと思いましょう。
買物袋携行の定着化同様一度見直しを行うべきです。
メディアに踊らされやすい「ノリの軽さ」「早く飛びつくイキねらい」「KY回避症」に代表される国民性は、愚かなのです。
かつて、ヒットラーが始めた大戦においても、初戦の成果に眼を見張り、バスに乗り遅れまいとばかりに、なんらの準備も計画もなく連れション気分で追随し、大けがをしたんでした。アジア太平洋戦争の敗戦後も、何ら総括をしなかったんです、反省もせず、過去の歴史に学ぼうとしない「愚」者は、何度も同じ過ちを冒すというじゃありませんか。
これは困った「負の」国民性です、
何事もリーダーに預け放し、自己主張をしない「顔無し症候群」とも、「村八分恐怖症候群」とも、言われる負の側面は、徹底して改めるべきです。
さて、プラスチックだが、何とかこれを日本の言葉で表したいものと画策した、結果は見つからなかった。
昭和改元から敗戦までの約20年は、軍国統制の時代で、外国語を排除したと聞く。
映画フィルムに使われかつて隆盛だったセルロイドやベークライトの出現は、日露戦争<1904〜05>前後のこと、これ等の草分け的プラスチックにこそ和名あるはずと想い追いかけてみた。
ベークライトの身近な用途は、今でも電気配線のスイッチやコンセントだが、これは実は開発者ベークランド<1863〜1944、ベルギー生まれ、米国の化学者>の名に因む商品ブランドだそうだ。一般分類ではフェノール樹脂に当り、則ち石炭酸樹脂なる和名があった。
セルロイドもベークライトも種類膨大なプラスチックのごく一部門らしい。プラスチック別名化学合成物質の栄枯盛衰は激しいようだ。
ところで、プラスチックとは何ぞや?
だが、これほど身の廻りにふんだんにあって、しかも正体不明の物質は他にない。
身の廻りにふんだんにあることは、すなわちコスト的に安くて、成型が容易で、大量生産に適している、の経済上有利な三条件をクリアーしているからだ。
正体不明の意味するものは、ある意図をもって真相が隠されて来た経緯の反映だが、軍事兵器由来の製品の場合、初期開発プロジェクトを担ったクニ・レベルで当然視され、秘密保持に成功した歴史的成果だと言えよう。
これ等のプラスチックには、ほとんど漏れなく誕生をめぐる秘密のベールがつきまとう。資本主義、競争原理に内在する暗い過去に触れざるを得ないのである。
いよいよ話題は核心に迫るが、この続きは次の第22稿をご覧下さい