KankyoーNo.20

*気候変動について考える–第20稿
身の廻りに起る不都合について考えるシリーズの第19番目のテーマは、気候変動である。
気候変動については、ほとんどの人が何らかの違和感なり、不満なりを感じているのではなかろうか?
だが、筆者にこのテーマと伐り結ぶほどの力量は全く備わらない、ほんの入口周辺を右往左往してみたい。
気候はこと自然事象なのだから、そう簡単に変動と認めましょう、ハイ決定とは行かない。居合わせた多くの人が認めたから、それで成立しましたと言う社会科学マター類似の問題ではない。
平均気温であれ、年間降雨量であれ、いつ頃から、どの程度の変量で遷移し、その主たる原因はこうであり、従たる背景としてはああではないかとまあ、科学計測によるフィールド別遷移変量データなど客観的資料を示し、科学者としての見解なり、時に新発見とも言うべき仮説を添えて、他者に提示するものだから、合意形成はそれほど簡単ではない。そのことは他方で、気候変動の定義の難しさや証明することの困難さとも一体である。
仮に、データ的に気象状況の変化が明らかであったとしても、いつまで過去に遡れるかの問題がある。この国の場合、そのデータ蓄積はせいぜい遡っても明治政変からの僅か140年程度しかなく、この程度の時系列的薄っぺらさでもって地球温暖化を括るべきでないとの危惧がある。
ここまで来てから言葉のことを論ずるのは、遅きに失するが、気候変動は英語クライミット・チェンジから翻訳した言葉であり、地球温暖化もまた同じ原語から導きだされた翻訳語らしい、、、なお、本稿第7稿では、異常気象としたが、これも同一由来翻訳語だ。
厳密さに拘れば、地球温暖化や異常気象なる言葉を単独の日本語として使いたくないと筆者は思う。
気候変動は、その点において原語の意味に忠実な訳なので、単独使用に耐えると考えたい。
地球温暖化なる語のまずさは、寒さから逃れられるイメージに直結することだ。寒さに喘ぐ地域の住人には安易な希望を招く懸念があるし、地球全域規模の広さで暖かくなるとの誤解を招きやすい不備があると筆者は考える。
実際の気候変動は、地域差がなおさら際立つように起っているようだ。
しかも一律平均どころか全く逆で、従来から湿潤だったところは洪水が起るような降水過多に、以前から乾燥だった土地はなお一層降水量が減少するなど、両極端に二極分界しているのである。
次に異常気象なる語をやっつける、異常とする根拠なり、どこまでを正常とするかの範囲をデータをもって示すべきなのに、その科学的当為に相応しい根拠の明示に遭遇したことがないのだ。
さて、気候変動について行政と科学が手を携えて阻止しようとするキャンペーンかアクションプランかを論ずる国際会議が、この秋名古屋にて開催されるとメディアが報道している。
決めたことが行われ、その言行一致が貫かれるのであれば結構である。
これまでの人類の行過ぎた過剰な消費経済行動を食い止めることが、もし出来るならば、その事自体人類の叡智として、全面的に何らの留保を設けずに評価できるからである。
過剰な消費経済行動とは、もっと絞り込んで言えば、最近250年の特に欧米日などの自ら先進国を僭称する地域の産業活動を指す。
250年と算定する背景はこうだ、産業革命の始まりをその前夜を含め、ゆとり幅をもって時間座標とした。
以下に展開することは、一問一答式のテスト(小学校から12年も続けて訓練され、更に4年加えて16年間も優秀であり続けた)を耐え、単線的単純化短絡至上史観に漬かった今日只今を疑わない大多数の人々には、まったく受けない内容なので、これ以上読み進むことが時間の無駄であることを申上げておきたい、、、、
さて、前置が長過ぎた、まず結論を言おう。
気候変動を人間の行動でコントロールすることは、全く無理である。
それが出来ると想う人が居たとしたら、おそらくその人は神のような存在であるか、クレイジー神学者か、のいずれかである。
そのことを論ずることの意味は無いので、次に進むとしよう。
気候変動の進行速度を遅らせる可能性はどうであろうか?
実行不能であっても、ほんの僅かの希望に縋るのが人類の楽天性であるとの前提で、その可能性を想定することとした。
想定されるアクションプランはこうだ。
一言、250年前に戻ること。
さて、またまた達成不能のこの命題を建てるに至った背景を述べよう。
まず、世界観もしくは社会的価値観を変えよう。
その観想とは、産業革命の延長上に現代社会があり、しかも後世に出現する時代相があらゆる点において前代よりも優れているとする、今日只今を疑わない世界観のことである。
この世界観の、前半は連続史観であり、後半は発展願望史観である。この世界観に立つ人、もしくはそれしかないと想い込んでいる人は、このクニに多い圧倒的に多いと言える。
国民国家が行う無償教育の成果たる世界観などは、その程度のものである。要するにそう信じ込ませ、議論をさせない、考えさせないことに狙いがあるからだ。現実に議論を封ずる効果は十分にでているようだし、異なる発想の変人は排除される、不自由なクローン社会<アニメ映画では顔無しの純金小粒をばらまく黒子や大きな図体の口が達者な赤ん坊として、現存するクニの住人が風刺される>が、ほぼ疑いなく実現している。
歴史としての時空座標は連続するのか、それとも不連続なのか、
筆者の立場は不連続としたいのだが、それを是とするか、否とするかは、結論的には実は誰も証明することは出来ないのだ。
それは時間がどこから来てどこへ行くのかを空間の中で示せないことに由来している。
発展史観に「願望」の2字を挿入した背景だが言うまでもない、歴史は過去の事実である、動かしがたい客観的事実である、それを一つの因果関係に落し込むことや暗記して正解に至る愚行が日常茶飯事的に行われている。再度言う、本来、過去の事実に発展も、願望の実現もないのだ。個々人の見方によって、発展とされたり後退とされたりするだけだ、だから見方において他人と重なる筈がない。仮に重なったとしたら、それは単なる偶然だ。
さて、本題に戻る、250年前には戻れないが、これから新たに250年前夜と同じ社会を構築するのである。
人類社会は不連続である、との前提に立てば実現可能であろう。
やるべきことは無数にあるが、困難度の高いものから、目ぼしいものを列挙することにしよう。まずは、世界人口を10億人以下を維持する、次に核兵器を廃絶する、3番目は印刷したお金は無効にする、その次はカネとモノの移動や輸送を世界中で取止める、更なる次は<最後とする>、軍隊を災害対策救世軍に変える。これで5つ、一切説明はしない。
今日は昨日の延長ではない、まして、明日もまた今日の延長とすべきでない。これが求めに応える説明だ。
因みに筆者には、失うことで痛手を感ずるような既得権が全くないことを申し添える。
もう本稿も終るとしよう、新たに250年前夜と同じ社会を構築すると、どうして気候変動の進行速度を遅らせることになるか、その説明は実に簡単だ。
人口が減り、戦争が無くなり、所有欲と輸送と言う最大のエネルギー浪費のシステムが消えること、それは則ち生物多様性の回復そのものに直結している。
生物多様性とくに植物、森林の力が、気候維持のキィー・エレメントなのだ。
中でも戦争は最も破壊力ある愚行だ。あらゆる生命の基礎である地球を徹底的に傷つける、地上から永遠に消し去りたい。